大学に行く意味は、毅然として存在し続けている
イケダハヤトさんの「今、大学に行く理由」という記事がBLOGOSに掲載されて以来、身の回りで「大学に行く意味あんの?話」が多くなって来たので、いったん整理して、現在の私の考えを記録しておきます。
先ず、身の回りで「大学に行く意味あんの?話」が多くなって来た、について。現在私の研究室に所属する赤坂真知という男がいます。彼の親しい友人に上田和真くんという方がいます。上田くんはイケダハヤトさんの文章に答える形で「大学なんて行く必要ない。」という文章を書いており、この文章が一部の人々の間で話題となりました(上田くんはこれがキッカケでBLOGOSデビューをしています)。つまり、上田くんという人物が(私とは面識がないものの)私のコミュニティとして近しいところにいるため、私の周りで飲む度に「大学に行く意味あんの?話」に花が咲くことが続いた、ということです。今回は上田くんの文章や、上田くんのページに寄稿している、うちの赤坂真知の文章も参考にしつつ、ここらへんの話題に触� ��ていきたいと思います。
最初に整理すべき考えとキーワードは「大学に行く理由」と「大学に行く意味」です。「大学に行く意味」はあっても、それが自分にとって意味をなさなければ「大学に行く理由」にはなりません。
例えば、レストランは人々に食事を提供するサービスを行っています。人々がレストランに行く意味の一つに「プロの料理によって空腹が満たされる」というものがあります。「レストランに行けば、プロの料理によって空腹が満たされる」という、人々が「レストランに行く意味」は理解出来ても、実際に自分が空腹でない、自炊が好き、レストランより美味しい料理をつくってくれる人がいる、などの状態であれば「レストランに行く理由」はありません。イケダハヤトさんの言葉で言えば「行く必要を感じていない」という状態です。
「大学に行く理由」と「大学に行く意味」という言葉は、丁寧に扱わなければ議論が間違った方向に進みます。「大学に行く理由がない」と言われれば「確かに君の人生設計においては大学で学ぶ必要はないのかもしれない」とか「君のような人が学べる場所はどこなんだろう」とかいう会話になりそうですが、「大学に行く意味がない」と言われれば「大学に行くと学歴を得られるという意味があるよ」とか「確かに大学には意味がないかもしれない。大学なんて要らないよね」とかいった会話になりそうです。とりあえずここでは「大学に行く理由」と「大学に行く意味」を以下のように整理し、定義して話を進めます。
私は英語の学位を取得して何ができるのでしょうか?
- 大学に行く意味:大学が提供するもの(学問的知識、モラトリアム的性質をもった時間、質の高い空間…などなど)の社会的価値の度合い
- 大学に行く理由:大学が提供するものの社会的価値が人の行動に影響する度合い(=大学が提供するものに人が必要性を感じるかどうか)
(例)東京大学は日本における最高学歴とされており、ここで得られる学問的知識の水準はトップレベルであり、学友の多くは卒業後大企業の重役、有力政治家、キャリア官僚などの職に就き力強い人間関係資本を形成することができる。従って東京大学に行く意味はある(東京大学の提供するものの社会的価値の度合いは高い)。しかし、私の後輩は高校を卒業した後は父親の稼業・老舗の米屋を継ぎ、一生涯この仕事をやっていきたいと思っている。彼には最高学歴やトップ水準の学問知識、東京大学に通う学友の人間関係資本は必要なく、東京大学に行く理由はない(東京大学が提供するものの社会的価値が彼の行動に影響する度合いが低い・東京大学が提供するものに彼が必要性を感じない)。
さて、一旦こうして整理してみると、イケダハヤトさんが浮き彫りにした社会状況というのは「大学に行く理由がない人が増えている」ということだと考えられます。「実際に『大学に行く必要はない』と考え、行動する人たちが増えていると思われる」という言葉がそれであり、上田くんの文章は「実際に『大学に行く必要はない』と考え、行動する人」の個別具体的な例の一つとして捉えることが出来ます。私自身、戦後から現代までを勉強した限り、ここ十数年は社会が多様性を認めるよう変化してきていると考えており「大学に行く理由がない人が増えている」と感じます。
しかしこれらは「大学に行く意味がなくなってきている」わけではありません。私は、大学が提供するものの必要性を感じない人が増えているのは、社会構造の変化があってそういう状況を作り出しただけで、大学が提供するものの社会的価値の度合いが一概に低くなっているわけではないと考えます。
では、以下にこうした現代の状況を私がどう捉えているか、という話をまとめます。
大学に行く理由を感じない人が増えているのは、社会が多様性を認める構造になったことの象徴の一つで、多様性を認める社会が望ましいという考えに立っている私からすれば、喜ばしいことだと思います。同時に、決して大学に行く意味がなくなったとも思っていないので、大学もこうした状況を問題視する必要はないと思います。繰り返しになりますが、大学に行く意味は昔からずっと毅然として存在し続けています。
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大学に行く理由を感じない人が増えているということが、何故、社会が多様性を認める構造になったことの象徴の一つなのか。イケダハヤトさんの言う「NPOやってたり起業準備中だったり」の「超優秀&アクティブ」な人が「大学に行く理由なくね?」と思って、その通りに行動できているというのは、大学に行かなくても、個人のパフォーマンスを最大限発揮できる場所に行く道が用意され、人がその道を歩むことを社会が認めるようになった、ということだからです。(どうでもいい話ですが、私は「NPOやってたり起業準備中だったり」が「超優秀&アクティブ」とは思っていません。とはいえイケダハヤトさんなので「NPOやってたり起業準備中だったり」という個人の状態だけで「超優秀&アクティブ」と判断したわけではなく� ��実際に彼らと会って話して「超優秀&アクティブ」だと感じたのだと思いますが)
では、私の主張するところの「大学に行く意味は毅然として存在し続けている」について書きます。
大学が提供するもの(学問的知識、モラトリアム的性質をもった時間、質の高い空間…などなど)の社会的価値の度合いはしっかりと高いままです。私は大学の提供するもので最重要なものは「学問的知識」だと思っています。学問的知識とは、一定の理論に基づいて体系化された知識・正式なものと認知された知識のことです。世の中に知識はたくさんありますが、そのうち「この知識は正式なものだよ」と認知された知識が、大学の講義で得られる知識です。
よく「こんなこと学校じゃ教えてくれないだろ」という言葉がありますが、当たり前で、大学では「正式なものと認知された知識」しか教えることが出来ません(少なくともルール上は)。正式なものか分からない知識については、オフィシャルには学生に教えることが出来ないのです。その線引きがあるからこそ、私は大学が素晴らしいと思っています。講義の内容に安心することが出来ます(勿論あらゆる事情で偏重教育が生まれることもあるかもしれませんが、それらが糾弾されるようになっているのも大学が「正式なものと認知された知識」を教えるところだという認識があるからです)。
大学で得られる学位というのは、学問的知識(一定の理論に基づいて体系化された知識・正式なものと認知された知識)を一定量学び修めましたよ、という証です。かなりぼんやりとではありますが、個人の「知の質」と「知の量」を証明する機能を果たします。世の中に知識を持っている人はたくさんいますが、その中で「学位を持っている人」というのは「正式なものと認知された知識を一定量持っている人」と判断することが出来ます。その知識の運用能力は別として。
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私自身、青山学院大学を一度中退し、横浜市立大学に入って一年半休学し、その間に学外で幾つかのプロジェクトに関わり、社団法人を立ち上げ運営したりといった活動をしているため、周りの人々には「卒業する気ないでしょ」とか「大学の勉強とかナメてるでしょ」とか「大学に行く意味なんてないよね、ね?」という言葉を投げかけられることか多いのです。その度に私は「大学の勉強に意味がある」という強い主張をしています。それは私が大学の提供する学問的知識に最も意味があると理解し、かつそれを修めたい(学位を得たい)という気持ちでいるからです。
大学が提供するもの、他には、人間関係資本、モラトリアム的性質をもった時間、質の高い空間…といったものが挙げられます。人間関係資本。外れ値も目立つものの、だいたい同じような能力値と興味分野を持つ数多くの学友。多くの自分と似通った人々と長い時間を共にすることで、今まで気がつかなかった他人との微妙な差異に気付かされ、個性が研ぎ澄まされることが期待されます。モラトリアム的性質をもった時間。昔も今も変わりなく、時間は基本四年間与えてくれます。何をしてもいいし、何もしなくてもいい。自分の価値観を疑い、崩し、形成し、また疑うということを繰り返して過ごすことが、マージナルマンとして許される時間です。質の高い空間。様々なサービスの整ったキャンパス(大学間差はありますが…� ��の通ったことのある青山学院大学と横浜市立大学ではかなりの差がありました)は、学びに適しているだけでなく、学友たちとの交流に適したものとして洗練されています。こういったものの社会的価値の度合いは、今も昔も変わりないレベルで、そこにきちんと存在しています。
ただ、社会が変化したことによって「大学に行く」という方法以外でも、それに類似したものを得易くなったという状況はあります。だから特別「大学に行く理由」を見出さない人が増えたのでしょう。(大学進学率は上がっているじゃないか、という話もありますが昔は「行きたくても行けない」人が多かったのに対して、現代では「行くか行かないかの選択肢のある中で、行かないという選択をする人が増えた」という違いがあります)
大学に行く理由がない、という声が見えるようになってきたのはいいことだと思います。そう感じる人が増えたというのは、これまで大学でしか得られなかったものが、大学以外でも得られるような社会に変化した(社会が整備された)ということだと思います。また、そう感じた人が堂々とそういう意見を言えるようになったのも、多様性を認める社会風潮が育まれたからです。主張する人の多くに社会的成功者が多いですが、彼らがそういう自身を築きやすくなったのも、社会が大学に拘らなくなったからです。
しかし気をつけなくてはならないのは、大学の意味を否定するような方向、大学に行く人間を貶す空気感を作らないことです。前述の通り、私は多様性を認める社会が望ましいという考えでいます。大学に行くことも、多様性の中の一つだという考え方が大事です。
少しぼうっと考えてみると、1930年頃、1950年代半ば頃に映画『大学は出たけれど』が話題になっているように、人々は「所詮、大学なんて行ったってよお(笑)」という話が好きなんだろうなあという思いが浮かびます。無論、イケダハヤトさん始め、今回話題になった人々がそういった低次元の域でこのテーマを扱っているわけではないのは、彼らの文章を読めば分かります。ただ、どうもその彼らの文章を「話題にしている人たち」の中に、彼らの文章をそういった低次元の域に持ってきて運用する人が目立ち、ちょっと滅入っています。そういうのはお酒のツマミ的に語られたりするくらいにして欲しいです。「大学なんて行かなくてもよくね?ジョブズも大学出てないし。大学行く意味なんてないだろ」みたいなかんじでガン� �まって言われても焦る。
まとめます。
- 大学に行く意味はある。学問的知識を得られるということを中心に、大学に行く意味は毅然として存在し続けています。
- 大学に行く理由がないと感じる人が増えています。大学が変化したのではなく、社会が変化したから、大学に行く理由がないと考える人が多くなったのでしょう。
- 大学に行く理由がないと感じる人が増えているのは、大学以外で大学の提供するものに類似したもの(あくまで「類似したもの」)が得られるように社会が整備されてきたから。必要性が大学だけに求められなくなったのです。
- 大学に行く理由がないと感じる人が、それを堂々と発言しているのは、多様性を認める社会風潮の象徴。喜ばしいことです。
- 決して大学に行く意味がなくなったわけではないので、大学がどうこう気にすることではないです。ましてや大学に行く理由があると感じている人が不安に思う必要もない。
- 大学に行く理由がない人が、大学に行く理由のある人を貶す風潮を作らないようにしなければならない(大学に行くのも行かないのもそれぞれ多様性の中の一つ。多様性を認め、個人のパフォーマンスが最大限発揮される社会を作っていこうぜ!)。
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