橋下 徹(はしもと[注釈 1] とおる、1969年6月29日 - )は、日本の元タレント(タイタン所属)、政治家。弁護士(大阪弁護士会所属 登録番号25196)。大阪維新の会代表。大阪市長(第19代)。前大阪府知事(民選第17代)。
[編集] 生い立ち
東京都渋谷区幡ヶ谷の六号坂通り商店街近くのアパートで幼少期を過ごした[1]。物心ついた頃には両親が離婚しており、母子家庭の長男として、四つ下の妹を含めた三人家族で育った[2]。
橋下が小学2年生の時、暴力団組員の父親が自殺[3]、母親が苦労して家計を支えた。小学5年の頃大阪府吹田市に引っ越し、1年後に大阪市東淀川区に移り住んだ。府営住宅から地元の公立学校に通った[4]。
実父については後述。
[編集] 学生時代
大阪市立中島中学校、大阪府立北野高等学校卒業。高校時代の同級生には自民党前衆議院議員の川条志嘉、NHKアナウンサーの藤井彩子がいる[注釈 2]。
中学・高校時代はラグビー部に所属[注釈 3]。3年時には、第67回全国高等学校ラグビーフットボール大会大阪予選を勝ち抜き全国大会に出場。3回戦で伏見工と激闘を演じたものの終了間際にトライを許し、トータルスコア12-16で敗れベスト16で敗退した。[注釈 4]。後に高校日本代表候補に選ばれ東西対抗にも出場する。高校在学中に、日本テレビの『全国高等学校クイズ選手権』に出場。地方予選で敗退したが、放送には映っていた。地方大会・事前番組・本放送に映ったことのある芸能人は橋下とザ・プラン9の浅越ゴエのみである。なお2005年に橋下が『いつみても波瀾万丈』に出演した際に、司会の福留功男は当時のVTRを見て「こんな所にも出ていて私はビックリしました」と驚いていた[5]。
一方で、学校での成績は進級が危ぶまれる程悪く、現役時代には早稲田大学を2学部受験するも、不合格に終わった。学力不足であったため、国立大学・神戸大学への受験を諦めて、私立専願に志望を変更したという[6]。卒業後、一年間の浪人生活を経て、神戸大学法学部に落ちて、早稲田大学政治経済学部経済学科に入学。東京の六畳一間、風呂無し、トイレ共同のアパートで、後に妻となる高校の同級生の女性と同棲を始める[7]。学生でありながら革ジャンの卸売[注釈 5]などアパレル事業をしていた時に、不渡り手形をつかまされた経験で法律を勉強したことがきっかけとなり弁護士を志す。
[編集] 弁護士・タレントとして
1994年春に大学を卒業し、同年、司法試験に合格[8]。2年間の司法修習で法曹資格を得、1997年に大阪弁護士会に弁護士登録。大阪市内にある樺島法律事務所に10ヵ月在籍。
弁護士2年目の1998年、大阪市内に「橋下綜合法律事務所」を設立し、示談交渉による解決を看板にする。飛び込み営業なども行い顧客を集め[5][9]、年間400~500もの案件を手がける。弁護士としての主な担当業務は企業コンプライアンス、M&A、エンターテインメント法、スポーツビジネスなど。2008年2月6日の大阪府知事に就任後は、事務所を法人化し別の弁護士が運営する。
芸能事務所タイタンと業務提携し、自身のタレントとしてのマネージメントを委託していた。また、同社の顧問弁護士も務めていた。
[編集] 政治家として
2007年12月12日、大阪府知事選挙に出馬することを表明。2008年1月府知事選に出馬した橋下は、八尾市の街頭で、「私は(八尾市の)○○地区に住んでいました。」と演説した[2]。
2008年1月27日投開票の大阪府知事選挙で183万2857票を獲得し当選。同年2月6日に大阪府知事に就任。
詳細は「#大阪府知事選出馬」を参照
2009年に、世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leadersの1人に選出された。
2011年11月、自らが掲げる大阪都構想などの政策実現を目的として、任期を3ヶ月余り残して大阪府知事を辞職、任期満了に伴う大阪市長選挙に立候補。
「2011年大阪市長選挙」も参照
40年ぶりとなる府知事選とのダブル選挙、現職の平松邦夫(12月19日任期満了)との一騎打ち等が注目されたが、結果は750,813票と平松に20万票以上の差をつけて初当選。
同年12月19日、第19代(公選制では9代目)大阪市長に就任した。大阪市外在住者(豊中市在住)が大阪市長になるのは史上初であり[注釈 6]、知事経験者が政令市長に就任するのは史上初である。
[編集] 思想
- 大阪府特別顧問、2011年から大阪市特別顧問、大阪府市統合本部特別顧問を務める上山信一はマッキンゼー・アンド・カンパニー出身である。したがって橋下徹も、同社のシンボルであり代表的出身者である経営コンサルタントである大前研一の新自由主義的な思想に強く影響を受けていると思われる。またyoutubeのbbt757program大前自身も橋下徹との直接的な関係に関する発言をしている。発送電分離や道州制などは大前の主張と同一であり、道州制は大前の主著『平成維新』などでも記されている。大阪市長選挙の最中で忙しいときであるにもかかわらず、大前の新刊『訣別―大前研一の新・国家戦略論』はすぐさま読破している。
- 2008年10月23日、私立助成減額をめぐる高校生との懇談の場で、「今の世の中は、自己責任がまず原則ですよ。誰も救ってくれない」と強調している[10]。この対談では、私立高校に通い補助を依頼する高校生に「どうして公立に行かないの?公立で一生懸命勉強すればいい」等と述べている。また『行列の出来る法律相談所』では、母子家庭で貧しく進学できそうにないという学生の相談に「厳しいだろうけど、頑張って欲しい」とエールを送っている。
- 合法でさえあれば道徳にしばられず競争すべきだとしている。例えば、著書の中では「ルールをかいくぐるアイディアを絞り出すことこそ、いまの日本にとって一番必要なんじゃないか!」[11]「明確なルールのみが行動の基準であって、明確なルールによる規制がない限りは何をやっても構わない」[12]「ルールの隙を突いた者が賞賛されるような日本にならないと、これからの国際社会は乗り切れない」[13]などと述べている。そのため、ニートに対しても厳しい姿勢を見せており、『たかじんのそこまで言って委員会』において、ニート対策については「拘留の上、労役を課す」と発言した[注釈 7]。
- 「競争の土俵に上がれる者」に対しては徹底的に競争を促す一方で、競争の土俵に上がれない者に対しては特に手厚い支援を推進するという一面も持つ。「障害者雇用日本一を目指したい」と述べて、障害者の法定雇用率1.8%に満たない企業に対して雇い入れ計画の提出を義務づける障害者雇用促進条例を全国で初めて制定[14]したり、障害者支援学校の増設やスクールバスの拡充をするなど、障害者支援政策に積極的に取り組んでいる[15]。
- 山口二郎・北海道大学大学院教授からはその[要出典]政治手法を橋下とファシズムをかけた(かばん語)「ハシズム」、精神科医師の香山リカからは「バトルを描いて二者択一を迫るのが得意。世の中には白か黒かでは割り切れないものもあるのに」、薬師院仁志・帝塚山学院大学教授からは「両立し得ない軍隊式官僚主義と市場原理主義を、時と場所に応じて使い分けてしゃべる。住民をどこに連れて行こうとしているのか」と批判されている[16]。しかしこれらの批判者は元々憲法問題などさまざまな点で橋下とは異なる立場であり、橋下も「これらのハシズムとか言っている大学教授や有識者の話を聴いても、『なるほど』という意見は何一つない」と答えている[17]。
[編集] 交渉術、処世術
民主旋風が吹いた2009年の総選挙などでは民主党を支持する立場を取っていたが、現在は距離を置き批判などをしている。
[編集] 趣味・嗜好
[編集] その他
- 身長174cm、血液型はB型。
- 短足であることをコンプレックスに思っている[18]。
- 以前は喫煙者だったが、今はタバコをやめて大の嫌煙家である。
- かつては視力が悪く眼鏡をかけていた。レーシック手術を受けて視力が回復した後も伊達眼鏡をかけ続けていたが、知事になって以降はかけていない。
[編集] 学生の頃
[編集] 少年時代
小学校2年生の頃、父親が自殺。その後、母子は、橋下が小学校5年生の時に大阪の吹田市に転居。1年後に東淀川区にある府営住宅に入った。ノンフィクション作家の上原善広によると「府営住宅に申し込んだら、偶然、その地区(同和地区)に当たったようです。母親は息子に、父親がいわゆる被差別部落出身者だということは教えていなかったと思う。彼は自分のルーツを知らぬまま東京で育ち、その後、たまたま別の部落のある街に引っ越して生活するという、非常にねじれた境遇で育ったのです。」という[19]。また、橋下の母親は府営住宅の家賃に関して同和減免措置を受けるよう誘われたが断り続けたという[20] 。
[編集] 中学・高校時代
中学一年生の時点ですでに身長は170cm程度あり、落ち着いていて正論を言うので、あだ名が『おっさん』だった。中学二年生の夏、自転車の窃盗で補導された[21]。
ノンフィクション作家の上原善広によると「彼が進んだ中学では、同和教育が行われていましたが、彼はこれに反発しています。卒業文集で、『納得できないのもたくさんある』とあからさまに批判している。中でも彼が最も嫌悪したのは"地元集中"というもの。これは学力の高い子も低い子もまとめて地元の高校に進学させるというもので、学力格差を防ぐための措置でした。橋下はこれに猛烈に反発し、府内屈指の進学校北野高校に進学したのです。しかしそこで彼は浮いた存在になる。中学で同和地区の理不尽さを学び、高校では坊ちゃんが集まるエスタブリッシュメントの世界を見たのです。この過程で彼の中に猛烈な上昇志向が生まれたのだと思います。」という[19]。
高校の頃のあだ名は『ハシゲ』。高校の同級生や橋下の高校生のころを最もよく知る先生によると、「(橋下は)体育の時間にバレーボールとかしてても失敗した子がいたら徹底的に罵倒した。掃除の時間になるといつの間にかいなくなる。校内大掃除とか、みんなでやる作業でも徹底して拒否した。」という[22]。
橋下本人はtwitter(2011年10月29日)で「僕は学生時代真面目な学生でなかったことは認める。先生の中にも僕のことを嫌っていた人はいっぱいいただろう。」とコメントしている。
[編集] 弁護士として
[編集] 新米弁護士時代
早稲田大学政経学部をへて弁護士になった橋下は大阪の樺島法律事務所に入る。ボス弁の樺島正法弁護士は新米弁護士時代の橋下を厳しく批判している[23]。
橋下本人はtwitter(2011年10月29日)で「僕が最初に勤めた法律事務所のボス弁は僕のことを大嫌いである。弁護士の多くは僕のことを嫌いだし。人が人を評価するには色々ある。そういう人は事実を離れて話すだろう。公人という立場である以上、そこは気にしない。」とコメントしている。
樺島法律事務所に入った後、橋下は「同和地区に住んでいたけど私は同和じゃなかった[24]。だから補助金ももらえなかったし、深く恨んでいる。私は同和問題はやりません」と言い、部落解放同盟の朝田善之助派が起こした京都市営住宅の家賃値上げ反対訴訟に参加することを拒否した[25] 。
[編集] 商工ローンの弁護士として
法律事務所を設立した2年目の1999年から2004年まで、消費者金融大手「アイフル」の子会社である商工ローン企業「シティズ」の顧問弁護士であった[26]。シティズは「利息制限法による引き直し計算とそれを前提にした特定調停・個人民事再生に応じない」「みなし弁済の主張に固執し、多重債務救済手続の支障になる」「連帯保証人を要求し、連帯保証人から債権回収を図る」など、多重債務問題に取り組む弁護士、司法書士、被害者の会などからは対応に極めて問題のある企業として知られていた[27]。橋下はこの時代を含め、「(担当した裁判は)8年間負け知らずだった」と語っている[28]。
[編集] マスメディアへの進出
大阪で弁護士活動をしている中、高校時代の先輩からMBSラジオのラジオ番組に代理出演を依頼され出演。偶然その時の放送を聞いていた朝日放送のプロデューサーから出演依頼を受け、朝日放送『ワイドABCDE~す』にジャーナリストの大谷昭宏と共に出演するようになる。大谷とはその後『スーパーモーニング』や『ムーブ!』でも共演している。同番組の火曜日に出演していたデーブ・スペクターが橋下の存在を知り、橋下が出演した放送のテープを東京に送ったことから在京キー局各社に名前が知られるようになった。
2003年4月から、久保田紀昭の後任として日本テレビ系全国ネットの『行列のできる法律相談所』にレギュラー出演するようになる。同年7月には関西ローカルの『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)でもレギュラーとなり、これらの番組におけるユニークな言動で全国的に知名度が上がっていった。大阪に事務所があり、番組出演の前後に公判を入れることがあるため、出演するのは関西ローカルの番組が多かった。
しばしばタレント・文化人批判や下ネタ発言をする一方、ワイドショーなどでは事故・事件・時事問題について自分の意見を強く述べていた。また、司法問題や法曹界全般、弁護士・裁判官の資質に至るまで幅広く批判していた。このため自身の発言で物議を醸すことも多かった。
詳細は「#話題になった言動」を参照
[編集] 大阪府知事選出馬
[編集] 出馬表明
「2008年大阪府知事選挙」も参照
2007年12月に2008年大阪府知事選挙への立候補が報道されたが[29][30]、当初は「2万%あり得ない」と否定した。後の出馬会見で、実際には自民党の古賀誠・選挙対策委員長、堺屋太一らと東京で会い、立候補を了承していたこと、報道された場合は会談自体なかったことにすることで合意していたことを明らかにした。2007年12月11日、再び大阪府知事選挙への立候補の意思があると報じられ、マスメディアの報道が出馬と否定に割れたが、本人は12月11日午後に再度否定した。翌12日、大阪府庁で行われた記者会見において正式に出馬表明[31]。普段のラフなスタイルと打って変わって髪は黒く、サングラス(色付き眼鏡)も掛けず、スーツにネクタイ姿で現れた。
二転三転した理由については、仕事の調整の手続き上であるとしたが、番組で共演する評論家で友人の宮崎哲弥は、「橋下がウソを付いた理由」もウソであるとし、「自公推薦だけでなく、財界の支援取り付けの確認ができるまで待っていたため」であると述べている[32]。
また、以前から自民党大阪府議会議員から打診があり、12月3日に立候補の正式要請を受けたこと、島田紳助ややしきたかじん、辛坊治郎からの後押しが出馬を決意するきっかけとなったとしたが、たかじんはその後「(知事選出馬への)GOサインを出したかどうかは、微妙だと思う」と語った [33]が、選挙戦終了後、「たかじんのそこまで言って委員会」収録後に楽屋で出馬を説得した事実を認めている。
なお、知事選への出馬により、出演しているテレビ・ラジオのレギュラー番組を全て降板することとなり、収録済みの『ムハハnoたかじん』は別番組に差し替えられることとなった[34]。
[編集] 支持勢力
2008年1月7日、自民党、公明党共に党本部としての推薦・支持を見送ることを表明し、自民党は「府連推薦」、公明党は「府本部支持」とし、共に府連レベルでの支援を決定した。公明党大阪府議団は、「核武装論など、今までの発言に支持者から反発があった」と過去の言動から「推薦」を見送り「支持」に留め、公明党本部もこれを尊重することを表明した。公明党は同年1月16日新春年賀会に橋下を招き、支持母体である創価学会を初めとする支持者らに橋下への支援を訴えた。また、ネット上では絶大な人気を誇り、ネット社会の寵児であるともいわれる。そのため、安易なネット規制は通信の秘密を侵害するものとして否定的である。親が暴力団関係者であるといった一連のマスコミによる批判が起こった際も、ネットユーザーか� ��橋下氏を擁護するためのマスコミ批判が沸き起こった。
維新政党・新風が「同和対策予算はゼロにします」という橋下の姿勢を評価し、勝手連として支援することを表明した[35]他、2008年1月7日には南部靖之や堺屋太一、井手正敬らが橋下の政策に賛意を示し、勝手連を立ち上げた。
[編集] 政策
記者会見では、認証保育施設の増設、公立中学での米食給食の実施、大阪市中心部を石畳とガス灯で整備する、歩行者天国を設置するなどを主張。しかし、それらは大阪市など大阪府以外の自治体が実施権限を持つ政策であったため、自民党府議団と会談した際に、公約となる政策を再度考えてくるよう資料を渡され出直しを命じられた。
府庁改革については、告示前に「府庁解体」を行うとして「ちゃぶ台をひっくり返す」「汗をかかない方は去って下さってかまいません」と発言するなど府庁職員に対して敵対姿勢を見せていたが、その後一転して府庁職員の前で話す際には「皆さん(府庁職員)の盾、サンドバッグになります。一緒にスクラムを組んでください。 」と対応を180度変えた[36]。
[編集] 知事選挙公約
- 4つのトライ[37]
- 1.子どもが笑う、大人も笑う大阪に「安心して子どもを産み育てられる大阪に」
「公立小学校に緑があふれる大阪に」 「食育教育の充実で、子どもが伸びやかに育つ大阪に」 「明るく豊かな学校生活がおくれる大阪に」 「多様な府立高校が選べる大阪に」 「ボランティア団体・NPOに活気がある大阪に」 「専門的な公立病院のある大阪に」
- 2.人が集い、交わるにぎわいの大阪に
「メリハリの利いた補助制度がある大阪に」 「商業地域・市街地に人が集まる仕組みづくりのある大阪に」
- 3.中小企業が活き活きし、商いの栄える大阪に
「府庁全体が中小企業振興のサポーターとして働く大阪に」 「大企業の要望を取り入れられる大阪に」 「大阪府立大学という『シンクタンク』がある大阪に」
- 4.府民に見える府庁で、府民のために働く職員と、主役の府民が育てる大阪に
「むだな出費を抑えた大阪に」 「道州制をめざした投資会社大阪府庁に」 「住民への直接サービスは市町村にどんどん権限を委譲」 「府庁は、各市町村にまたがる事業や各市町村の調整、また大阪府の方向性 を決定する司令塔の役割に徹する組織を再編」 「現在の大阪府の事業は、効果が見えにくいプロジェクトや単なるお金貸しの事業ばかり。今後は、効果がはっきり見える事業にしか投資しない」 「府議会からのチェック機能が働く大阪に」 「情報公開の徹底した大阪に」 「大阪の笑顔のために、国とたたかう大阪に」 「府職員の士気が満ちあふれる大阪に」
通信は何ですか?
- 17の重点事業[38]
- 「(仮称)出産・子育てアドバイザー制度」を創設
- 小児科・産科の救急受け入れを促進
- 妊婦一般健康診査の受診回数を拡大
- 乳幼児医療費助成を拡充
- 不妊治療費補助を拡充
- 駅前・駅中に保育施設の整備を促進
- 子どものいる若い夫婦への家賃補助制度を創設
- 障がい者や高齢者への公共公益活動を支援
- 大阪府内の公立小学校などの運動場を芝生化
- 大阪府内の全公立中学校に給食の導入を促進
- 安全な地域づくりをめざして防犯カメラの設置を支援
- 大阪府内で冬季イルミネーション・イベントを実施
- 「石畳と淡い街灯」の街をつくる
- 中小企業活性化のため大規模コンベンションを開催
- 大阪の活力アップのため知事による積極的なセールスを展開
- セーフティネットを除き大阪府が出資する法人を抜本的に改革
- 府立施設や府の事業で必要性のないものは民営化・売却を促進
[編集] 選挙戦
推薦・支持している自民党と公明党は表立った支援をせず、選挙対策本部は所属事務所タイタンと高校時代のラグビー部OBを中心とし、政党色を薄めた選挙戦を展開。自民、公明の大阪選出国会議員、地方議員がいっさい応援演説をせず、著名人の応援は選挙戦終盤に来た参議院議員・丸山和也と宮崎県知事・東国原英夫程度であった。7人の子持ちであることを前面に押し出し、「子供が笑う」をキャッチフレーズに「4つのトライ」と17点の重点事業をマニフェストとして掲げた。
選挙戦中盤の1月20日には、橋下のテレビなどでの言動を問題視した300万枚もの選挙法定ビラ(対立候補の熊谷貞俊事務所と同所在地にある団体が作成)[要出典]が新聞折込広告として府内に配布された[注釈 8]。
最終的には対立候補に80万票以上の大差を付けて当選。当選当時の都道府県知事の中で最も若い知事となった。いわゆる「タレント知事」の誕生は大阪府では横山ノック(2期を務め、途中で辞職)以来13年ぶり。弁護士出身の現職知事は愛知県知事神田真秋に次いで2人目である。公選の大阪府知事としては初の東京都出身である。38歳の公選知事は歴代3番目の若さである[39]。
当選直後から各種メディアに出演。1月29日には内閣総理大臣・福田康夫を表敬訪問。また、知事就任前に大阪府庁に登庁し事実上大阪府知事としての職務を始める。自民党大阪府議団の一室を借り、事実上の仮知事室として府職員と就任後の2008年当初予算の作成、政策協議を行う。
[編集] 大阪府知事として
[編集] 財政非常事態宣言
2008年2月6日に大阪府知事として大阪府庁に初登庁。就任の記者会見で財政非常事態宣言を出し、2008年度当初予算では前年度比で1000億円削減することを明言。現行4176万円の知事退職金を半減させるとした。6月5日には府の財政再建に道筋をつける為の「財政再建プログラム案」を提示。「収入の範囲内で予算を組む」という選挙公約に則り、事務事業・出資法人・公の施設について多岐にわたる見直しを行なった。その結果、3年間で計2441億円(一般施策経費919億円、建設事業費239億円、人件費1283億円)の歳出を削減したほか、613億円の歳入を確保した。
2008年から2010年にかけての「財政再建プログラム案」の主な取り組みは以下のとおりである[40]。
- ハコモノ集客施設を中心に公の28施設を廃止、見直し
- 大阪府指定出資法人44法人に対する廃止・見直しを行い、28法人に削減
- 知事給料月額30%カット・ボーナス30%カット・退職手当50%減額、一般職員給料月額カット(16%~3.5%)、ボーナスのカット(10%~4%)、退職手当の減額(10%~5%)、住居・通勤・管理職手当のカット、旅費制度の見直し、職員互助会等補助金の廃止[41]。一般職員退職手当の減額は都道府県で初めて
- 非常勤職員の雇用単価の見直し。休職制度の見直し。警察専門嘱託員の人員削減と報酬月額カット
- 義務教育等教員特別手当の見直し。教育関係非常勤職員費の見直し(単価カットと新規任用停止)。時間講師・府立学校教務事務補助員雇用費の縮減
- 私学助成と府立大学運営費交付金の見直し
- 府営住宅の管理費縮減、修繕・建て替え整備費用削減
- 市町村施設整備資金貸付金制度の再構築
- 文化関連事業の見直し(センチュリー交響楽団への補助金削減、文化情報センター・現代美術センターの廃止、ワッハ上方の運営費縮減、芸術文化振興補助金の重点化、大阪文化賞の再構築、大阪21世紀計画事業推進費の廃止)
- その他各種事業(大阪府人権協会補助金、人権相談推進事業費補助金、男女共同参画関連事業、観光振興事業、子育て支援関連事業、救命救急センター運営関係事業、高齢者の生きがい・地域生活支援事業、地域見守り・コーディネーター関係事業、障がい者就労支援関係事業、病院事業費負担金・病院事業貸付金、地域就労支援事業、小規模事業経営支援事業費補助金、企業立地促進補助金)の見直し
- 歳入の確保(府有財産の売却、市町村施設整備貸付金の繰上償還、基金の活用、出資法人からの歳入確保、自動販売機設置業者の公募、退職手当債の発行、行政財産使用料・普通財産貸付料減免の見直し、義務教育費国庫負担金の受入増)
[編集] 情報公開
2008年2月6日の知事就任記者会見で、「情報公開の徹底」を選挙公約に掲げたことを踏まえた「情報公開室」の設置を表明。「どんな情報を出すのか」という記者の問いに、「基本的には、あらゆる情報」と答えた[42]。4月23日の記者会見では、「知事職という独裁者的な職を民主的にコントロールしてもらうために、情報公開が必要不可欠」との認識を示し、「透明度日本一の府政を目指す」と語った[43]。
2011年9月1日、全国市民オンブズマン連絡会議が発表した「2010年度全国情報公開度ランキング」において大阪府は満点となる70点を獲得[44]、2007年のランキングでは都道府県で28位だった順位も1位タイへと上昇した[45]。
知事任期中に実施した「オープン府庁(究極の情報公開)」と呼ばれる取り組みは以下のとおりである。
- 「予算編成過程の公表」…全国で初めて、各会計(一般会計、特別会計、企業会計)ごとに、予算編成過程における各段階(財政課長要求・査定、総務部長要求・査定、知事要求・査定)の内容を府のウェブサイトで公開[46]
- 「公金支出情報の公表」…全国で初めて、約3000ある府の全事業について、公金を支出した翌日に府のウェブサイトで担当課名、支払日時、事業内容を公開[47]
- 「施策プロセスの見える化」…府のウェブサイトに「府民チェックボード」と「オープン府庁ポータルサイト」を設置。所属ごとに業務・施策の「概要」や「発端」情報、上司との打ち合わせや会議などの進捗状況を時系列で掲載[48]
- 「府民の声の見える化」…府の全部署に寄せられる府民の声を、各部署で「府民の声システム」へ登録。府民課が内容に応じて赤フラグ(申出者へ連絡するもの)・青フラグ(業務・施策反映を検討するもの)・フラグなし(トレンド分析に活用するもの)の仕分けを実施。各部署で検討を行い進捗状況をウェブで公表[49]
[編集] 方針撤回
選挙戦で公約した「原則として府債を発行しない方針」を当選後の2008年2月に撤回。2008年度の暫定予算案において、「発行しないと府民生活に影響が出る」との説明のもと、建設事業費として160億円の府債を発行する方針を発表した。さらに、「ギリギリまで発行を抑えたが、後半にどんとついてくる」と発言しており、府債発行を増額させる可能性を示唆している[50]。
学力別クラス編成導入について、選挙中に「塾でもやっていることが、なぜ公立の学校でもできないのか」として熱心に導入を呼びかけていたが、文部科学省の銭谷真美事務次官などの反発もあり、2008年2月13日にこれを撤回。「基本となるクラスまで学力によって分けるのは反対」と正反対の見解を述べた。また、約600億円(生徒児童一人あたり約37万円)に上る私立学校助成金の削減を検討していたが、これも撤回。次年度以降も当面続けることを明らかにした[51]。
[編集] 府議会、組合との対決
4月11日、総額1100億円の予算削減を行う財政再建プロジェクトチーム案を発表。この案を元に議論を進めるとし、「賽は投げられた」と述べた。この案は、職員人件費の大幅削減、警察官の定数削減、私学助成金のカットや助成団体への補助金見直しを含む大胆な案で、賛否入り乱れた大きな反響があった。4月17日には、市町村への補助金カット反対を訴える市町村長との交流会で、感極まって涙を見せる一幕を見せた。
6月5日には、試案を若干見直した「大阪維新プログラム」と称した案を発表。人件費や私学助成金など固定費を375億円削減し、全体で1100億円の歳出削減を図る骨子は変わらなかった。6月20日には、職員労働組合との徹夜の団体交渉に挑んだが、組合員から時節罵声が飛ぶなど荒れた雰囲気の中、両者の主張は平行線をたどり結局決裂したまま予算提出となった。
7月1日からの臨時大阪府議会では、府側が提出した2008年度本予算が審議され、知事与党からも厳しい批判がなされたことから予算の見直しを表明した。しかし、府議会各会派の足並みの乱れもあり、私学助成金や人件費のカットについて18億円の小幅修正を行った案が、共産を除いた主要3会派(土壇場で賛成に回った野党民主を含む)で可決された[52]。
[編集] 治安・暴力団対策
「安全な地域づくり」を選挙戦で公約していた橋下は、2008年9月26日の定例府議会において、「大阪の犯罪情勢は依然として厳しい」との認識を述べた上で、「街頭犯罪ワーストワンを返上する」と明言[53]。翌2009年4月、警察・知事部局・教育委員会などが連携して行なう総合的な治安対策の司令塔として、府庁内に「青少年・地域安全室」を新設した[54]。翌2010年に大阪府は、11年間続いていた街頭犯罪件数全国ワーストワンと、35年間続いていたひったくり件数全国ワーストワンを返上[55]。大阪府の犯罪認知件数は、知事就任前である2007年の216,303件から、2010年には164,096件へと24%減少し、同時期に全国の犯罪認知件数が17%減少したことを上回った[56][57]。
知事任期中に実施された主な治安対策は以下の通りである[54]。
- 防犯カメラ1700台(府内104駅の周辺に1250台・街頭犯罪多発地域に450台)の設置(府の全額補助)
- LED防犯灯を街頭犯罪多発地域に1940台設置(府の50%補助)
- 大阪府警第2枚方警察署(仮称)の新設、第2科学捜査研究所・証拠品管理センターの設置[58]
- パトカーや捜査用車両への車載カメラシステムの導入
- DNA型鑑定器材、捜査用撮影資器材など第一線警察活動の資器材強化
- 悪質重要事件捜査支援システムの整備
- 小学校の空き教室を利用して地域の防犯活動拠点とする「地域安全センター」を府内126校区に設置[59]
- 府内各土木事務所に警察官を配置し、地域住民による自主防犯活動を支援
- 地域住民では実施困難な深夜の青色防犯パトロールを府内24市で委託事業により実施
- 巡回指導や声かけ活動などを実施する「少年補導センター」を府内17市町で設置推進[60]
警察官定数について、2008年4月に策定された「財政再建プログラム試案」では520人の削減が盛り込まれていたが、大阪府警や府議会の強い反発を受け撤回[61]。その後は一転して、2009年12月17日に橋下自ら警察庁に赴き安藤隆晴警察庁長官に警察官定数増を要望。[62]2010年度当初予算で102人、2011年度には86人と、警視庁に次ぐ規模の警察官増員を計上した[63][58]。
2008年3月24日、橋下は大阪府議会警察常任委員会に出席。大阪府知事が警察常任委員会に出席するのは30年ぶりであった[64]。委員会で橋下は、暴力団について「暴力を背景とする脅しを武器に、国民や企業、近年では行政機関等から不当な利益を得ている集団であり、暴力団こそまさに府民の敵、社会の敵である」と述べた上で、「公共調達における暴力団の関与については、府民の貴重な税金が暴力団の資金源となる可能性もあり、非常に憂慮すべきこと」、公共事業の下請け業者からの暴力団排除を「府警本部とも協議しながら進めていく」と語った[65]。
2010年9月の定例府議会において、暴力団の「下請けを含めた公共工事からの排除」という独自の規定が盛り込まれた[66] 大阪府暴力団排除条例が可決・成立、2011年4月1日から施行された[67]。
2010年8月12日の記者会見で橋下は、暴力団の資金源とも指摘される貧困ビジネス[68]を規制する条例を検討していると表明した。橋下は府の担当部局から、貧困ビジネスは「民間対民間の取引なので(規制は)できない」と言われたため、「自分で(条例案の)ドラフトを書いた」と明かし、「福祉担当者や弁護士がこの条例を元に、悪い業者と戦うことができる」と説明した[69]。その後、10月27日の定例府議会において、貧困ビジネスを規制する全国で初めての条例「大阪府被保護者等に対する住居・生活サービス等提供事業の規制に関する条例」が可決・成立[70]、2011年2月1日から施行された。
[編集] 教育非常事態宣言と教育改革
- 知事就任後、2008年9月5日の記者会見で、全国学力テストの成績が2年連続で低迷したことを受け、「府の現状について『教育非常事態宣言』を発する」と述べ、教育力向上への取り組みを徹底する考えを示した。橋下知事は「府教育委員会が前回の(学力)テスト後に『方策を取る』と言ったのに、全く改善されなかった」と理由を説明。「教員が逃げているだけ」として、正答率も含めた学力テストの市町村別結果を公表する必要性を強調した。また、9月末で2人が任期切れを迎える教育委員について「僕の考えに共鳴する人に多数を取ってもらいたい」と述べ、その後「百ます計算」で知られる陰山英男と「小河式プリント」の小河勝を任命した。
- 翌6日には、枚方市で開かれた日本青年会議所大阪ブロック協議会主催のフォーラムで、「PTAが機能していない故の現状であり形式主義に陥っている」として「PTAを解体する」、全国学力テストの市町村別結果を公表するよう府教育委員会が市町村委員会に要請する事について「指導助言が無視されるようなら府教育委員会も解散する、小中学校課の予算は付けない」と発言。
- 同年12月には、「子供の安全」と「学力向上」のため、小中学校への携帯電話持ち込み禁止を行うよう府教委に要請した。
- 前知事が府内の全公立小学校に導入した「35人学級」について、「負担に見合う効果があるか疑問」として見直しを検討する意向を示した。また、「画一的に少人数にすればいいというものでもない。基礎ができている子の場合は、200人くらいでも授業は成立する。」との見解を示した。
- 2011年度から大阪府内の公立高校10校を「進学指導特色校」に指定し、これまで府立高校から約1000人だった難関国立大と難関私立大への合格者の6割増を目指すことを発表。また体育科を設置する高校と教育センター付属研究学校も同時に設置予定で、「学力に加え多様な進路希望に対応する」という主張に沿った内容となる予定[71]。
- 大阪府立大学について、「存在意義が十分理解されていない」として、廃止や大阪市立大学との統合を含めて検討する方針を示した。
- 府立高校の入試制度について、学業成績以外にスポーツなどでの評価を重視する、多様な入試制度プランを提唱している。
- 教育バウチャー制度への意欲を示している。
[編集] 府庁移転問題
大阪府庁を大阪ワールドトレードセンタービルディングへ移転する提案を出したが、条例は2009年3月議会で否決された(入居を見込んでいたビル側はこれにより会社更生法適用が確実となる)。直後の記者会見で「やっぱり日本は北朝鮮じゃないってことですよ。何でも思い通りに物事を進めたら独裁者になってしまう」と発言。引き合いに出されたことを抗議しながら生徒保護を求める文書を朝鮮学校保護者会「大阪府オモニ会」から手交された[72]。 これを受けて、北朝鮮によるミサイル発射の際、「大阪にも多くの北朝鮮籍の人が住んでいる。言論の自由が保障されている日本に住む北朝鮮籍の人は、北朝鮮の今の体制について厳しく批判しないといけない。国民に変える気概がなければ、国は変わらない」と述べた[73]。
[編集] 同和問題
2008年2月の大阪府議会で、堀田文一府議(日本共産党)から「私は、部落解放同盟は、暴力と利権をほしいままにし、部落差別解消にブレーキをかけた、そういう害のある団体だと感じております。(略)行政がそのような特定民間運動団体(部落解放同盟)を応援していいのか」との質問を受け、橋下は「部落解放同盟が利権や暴力だということを言い切られることでありましたら、これは私の今までの法律家としての感覚からすれば、全く証拠も根拠も何もないことでありまして、それは私も確かにそういうつながりがあるところも知っております、そういう事件があったことも知っています。ただし、そういうことがなく、本当に同和問題の解決に取り組んできたということも知っております。一面的な側面をとらえることなく、� �ちんと、解放同盟の活動を真摯に見ていただきたく思います」と返答し[74]、堀田から「知事は、今、私の部落解放同盟の評価について何の根拠もないと言いながら、いろいろ事件があったのは知ってると。知ってたら、やっぱり根拠があるということなんですよね。いろんな問題が起こってます。そこは冷静に見ていただきたい」との反論を受けた[74]。
堀田はまた、大阪府における同和奨学金の受給者の全員が返還免除を受けていることを「同和」の特別扱いとして府議会で問題にしたが、橋下はこれを特別扱いではないとした上で、「社会の実態といいますか、歴史的経緯を御存じない、そのような御指摘」「まだ同和問題で苦しまれているそのような家庭で育って、大学や高校に行くのに経済的な理由で進学が困難であるというような子どもを救うことが先決」と反論している[74]。この答弁につき、貧困撲滅や護憲問題などに関して日本共産党と協力関係にある同和団体の民主主義と人権を守る府民連合(民権連)は「橋下知事の方にこそ、「事実誤認・認識不足」があると言わざるをえません」と批判した[75]。
2008年3月の府議会で、橋下は「私はいわゆる同和地区で育ったが、同和問題は全く解決されていない。ただ、差別意識があるからといって、特別な優遇措置を与えていいのかは別問題。一から総点検していただく」、「この問題に真っ正面から取り組まないと人権問題、同和問題は解決しない。逃げてはいけない」と述べた[76]。
2008年8月7日、府連との政策懇談会を大阪府庁内の会議室で開き、 部落問題解決に向けた施策のあり方などについて意見交換した。橋下は「いわゆる同和地区で育ってきた。都道府県の知事のなかで同和問題について一番知り尽くしていると自負している。みなさんの協力をいただきながら、できる限り解決していきたい」と述べ、戸籍謄抄本などの不正取得防止へ本人通知の制度を考えたいとの意向も示した。また、差別意識をなくすために何が必要かのやり取りの中で、「部落差別の根本は「血」への差別だが、それはなくなってきている」と述べ、「経済的困窮者が集まってきているところという外形的な差別に切り替わってきていると思う」と持論を展開した[77]。
[編集] 関西三空港問題
関西国際空港活性化の要望をするために出向いた際、関西三空港のあり方について記者団に対し「伊丹空港の廃止も含めて検討し、きちんと方向を出さないといけない」と述べた。一時は撤回したが、2009年に再び伊丹空港の廃港を主張し、兵庫県の井戸敏三知事と対立する[78]。
[編集] 肖像権問題
府知事選出馬前、雑誌「フライデー」に無断撮影されたことで光文社を肖像権侵害で訴えたが敗訴。控訴しない旨を明らかにし、判決が確定した。また、7月25日、橋下の肖像画を無断使用したお菓子を池田市の第3セクターが販売しようとしたのに対し「法的措置も辞さない」とした。しかし翌日になって「盛り上がるなら使ってもらってもよいが、品質保証はできない」と述べ、肖像画使用を黙認。この騒動について、本人は池田市長との出来レースだったと述べている。
どのように米兵を取得する
[編集] 11年ぶりの財政黒字は誤りであった
2009年7月30日、2008年度の普通会計の実質収支が11年ぶりに119億円の黒字になった事が明らかとなった[79]。主な要因としては、人件費抑制などが挙げられる[80]。
しかし同年10月28日、橋下は記者会見で、実際には基金からの借入金が約1500億円あったとして黒字化を事実上撤回した[81]。この件に係る経緯は以下の通りである。
- 1997年、府の法人2税収入の大幅減少を受け、大阪府基金条例・第3条の改正を府議会が可決[注釈 9] これにより特定目的基金から一般会計への借入が可能になった[82][83]。
- 条例改正後は、赤字圧縮のための「やむを得ない措置」として、減債基金から一般会計への借入を行なっていたことが太田房江元府知事時代から公表されていたが[84]、橋下は知事就任後にこの借入をやめると宣言。橋下の指示で作られた府財政担当者の研究会は2008年12月、借入は基金の設置目的に沿わないとして「今後一切おこなわないこと」と指摘していた[82]。
- 翌2009年2月定例府議会において、大阪府基金条例・第3条が再び改正され[注釈 10] 、特定目的基金から一般会計への借入は原則としてできなくなった[83]。
- 同年10月、これまで判明していた減債基金からの借入のほかに、新たに6基金から1479億円の借入が明らかになり、府財政課は、減債基金と同様に「実質的には赤字」と説明した[82]。
- 同月初め、橋下が、府環境農林水産部所管で緑化推進が目的の「みどりの基金」(2008年度で名目上の残高87億円)を使って大規模な緑の拠点づくりの計画を作るよう指示。しかし、みどりの基金は一般会計に83億円を貸し付けており、実際の残額は4億円。一般会計を所管する財政担当から「財政難のため、返済が困難」と報告があり、問題が発覚したという[85]。
- 同月28日付の府の作成した資料[86]によると、以前から公表されていた2002年から2008年にかけての減債基金から一般会計への借入5202億円とは別に、1998年から2001年にかけて6基金から1533億円の借入があり、うち1479億円が未返済。橋下の知事就任以降の借入はなく、過去の借入は一般財源で積み立てた範囲内で行っており、府民等からの寄附分を含んでいないとされている。
- この事態を受け、府の財政課長は「条例上は問題なかったが、名目と実質の違いを明らかにすべきだった。今後わかりやすい説明に努める」とコメント[82]。橋下は借入金について、「いつ返すのか決まっていない。これは借り入れじゃなくて使い込み」、「基金から借り入れて、何とか数字を合わせている。真実の数字に基づいた会計制度にしないといけない」と批判[81]。返済計画がなく不良債権化していると指摘し、会計システム改革に着手する考えを明らかにした[85]。
- 翌2010年2月3日の記者会見で橋下は、特定目的基金を「減資」し、今後は一般会計から特定目的基金への拠出をやめ、積み立ては財政調整基金に一本化、寄付の受け皿としての基金は残すという方針を明らかにした[87]。同月の定例府議会において、大阪府基金条例の改正が可決され[注釈 11] 、特定目的7基金の6588億円が一括減資処分された[83]。
2010年2月8日、府が財政赤字を隠すために、5つの公社への貸付金を年度末の3月31日にいったん全額返済させて歳入とし、新年度の4月1日に改めて貸し付けていたことが府の包括外部監査で「不当な操作」と指摘された。この一時返済がなければ853億円の赤字であった[88]。この件に係る経緯は以下の通りである。
- 1998年から1999年度にかけて、府は財政赤字額を縮小するために、5つの公社に対してそれまで行なっていた長期貸付金を繰上償還させ、翌年度以降は貸付金を年度末に一旦全額返済させて歳入とし、さらに新年度に改めて貸し付ける「短期貸付金」方式に切り替えた[89][90]。
- 2006年2月21日、2005年度包括外部監査結果報告書が提出され、こうした短期貸付金が「実態に反した不透明な処理」との指摘を受けた[90]。
- 同年10月20日の府議会住宅水道常任委員会において、当時の太田房江知事は、短期貸付金が「府民から見て不透明な部分はある」とした上で、長期貸付に切り替えるべきとの指摘に対して「中長期的な課題として受けとめる」と答弁した[91]。
- 2008年12月、橋下の指示で作られた府財政担当者の研究会は、こうした短期貸付金の解消について「多額の財政負担が生じる対応は中長期的な課題」としながら、「当面は(貸付額を)必要最小限に抑えるべき」との結論を出した[90]。
[92]。
- 同年3月19日、府議会住宅水道常任委員会で橋下は、短期貸付金について「公の組織が資金繰りに困って、民間ではやらないような手法をとっている」「でたらめな財政手法」と述べた上で、長期貸付への切り替えを「中長期なんてのんきなことは言ってられない、できるなら本当はすぐにでもやるべき」としながらも、一般財源の手当が必要なことから「申し訳ないが、府民の皆さん、府を転覆させないためにちょっと延ばさせてください」と答弁した[93]。
- 同年11月13日[94]、大阪府住宅供給公社[95]・大阪府土地開発公社[96]・大阪府育英会[97]の3公社について、府の短期貸付金から金融機関の長期貸付金への切り替えを行なう旨の予算要求書が作成された。
- 翌2010年2月8日、短期貸付金を「不当な操作」と指摘する2009年度包括外部監査報告書が提出され[98]、新聞各社が報道。翌9日、当時の原口一博総務大臣は閣議後の記者会見で、大阪府の短期貸付金を巡る報道について「違法とまでは言えない」としながらも、「本来は長期貸付け又は補助金という形で対応すべき。早急に見直すように助言をしている」と述べた。また、「これは大阪府だけ(の問題)ではない。公会計制度をそもそも見直そうと考えている」とし、住民から見た自治体財政の「透明性が確保されているのか、あるいは財政の持続可能性をどこまで判断されるのか。判断ができないようなやり方はまずい」とコメントした[99]。
- その後の対応として府は、2010年度より前出の3公社への短期貸付金を金融機関の長期貸付金への切り替え、他の2公社については2015年までに廃止とする措置を講じた[100]。
2009年10月から翌2010年2月にかけて報道が相次いだこれらの不適切な会計処理に関して、橋下は2010年2月16日の記者会見で、「公会計システムがでたらめである」とし、「明治以来続いてきた現金主義」や「出納整理期間とかわけのわからない期間」などを問題点として挙げ、抜本的な改善を総務大臣に訴えていくと語った[101]。同年3月3日、内閣府の第2回地域主権戦略会議に出席した橋下は、地方自治制度改革に関する提案書を提出[102]。その中で、「複式簿記・発生主義会計の導入」「出納整理期間の廃止」を提案している[103]。
なお、2010年度決算において大阪府は、「特定目的基金からの借入」と「公社への短期貸付金」を見直した上で[104]、普通会計の実質収支で274億円の黒字見込みであると報じられている[105]。
[編集] 会計制度改革
自治体の公会計制度について、「民間の収入と公会計の収入が全然違うことに非常に戸惑いを感じる」と、その判り難さを指摘していた橋下は[106]、新しい会計制度の導入を検討。大阪府は当初、総務省が2006年に公表した新地方公会計「基準モデル」を採用する方針だったが、橋下は「財務マネジメントに生かせる会計制度にすべきだ」として[107]、出納整理期間などの問題点が指摘されていた[108] 総務省基準モデルの採用を見送り、東京都が2006年から採用している新公会計制度を参考に新システムを構築することを目指した[107]。
2009年4月17日、東京都の石原慎太郎知事は記者会見で、「大阪の橋下知事から(東京都と同じ会計制度を)導入したいと言われた」と明かした上で、「先進国で複式簿記・発生主義をやってない国は日本だけ」「会計制度そのものを変えないと国民の不安・不満は解消できない」と、かねてからの持論を展開。さらに石原知事は、会計制度改革について「特に大阪が熱心」と述べ、都の関係者を大阪府に派遣してサポートする意向を示した[109]。一方の橋下も同月28日の記者会見で、府の会計制度改革について「共同で、連携で東京都とやっていく」と明言[110]。同年6月1日には「大阪府新公会計制度プロジェクトチーム」を府庁内に発足させ[111]、大阪府と東京都の間で関係職員の相互派遣を開始[112]。 同年12月25日、新公会計制度導入に向けた中間報告を取りまとめ[113]、翌2010年8月16日には「大阪府の新公会計制度案」を公表した[114]。
大阪府の新公会計制度案では府の事業を251に分類し、事業ごとに人件費も含めた収支を計上。借金も府の収入に組み込まれるこれまでの単式簿記・現金主義から、複式簿記・発生主義へと転換。固定資産についても、サービス能力の低下に応じて帳簿価格を減額する減損会計を導入し、府債の残高や利払いの状況も実態に即して解り易く表記するように改めるとした。新制度について、大阪府は2011年度にシステムの試験運用と職員研修を行なった上で、2012年度からの本格導入を予定している[107]。
橋下はこの新公会計制度を「全国に波及させていきたい」と述べており[115]、国に対しては、2009年10月30日に行なわれた総務大臣とのテレビ会議の中で、「公会計制度を、きちんと組織マネジメントができるような、企業会計原則に近い正確な情報を出す制度にしないといけない」と発言、原口一博総務大臣(当時)は「公会計制度の抜本改革については、バランスシート経営、それからキャッシュマネジメントという考え方を入れていかないといけない」と応じている[116]。また、全国知事会に対しては、同年11月12日に行なわれた全国知事会の行政改革プロジェクトチーム会議において、「複式仕訳に基づく新会計制度の早期導入を、先進県の協力の下、全都道府県で検討」すべきと提案している[117]。翌2010年11月11日には、大阪府と東京都との共催により都庁で行なわれた「公会計制度改革シンポジウム」で、全国の自治体関係者など約500名を前に講演。「現金主義の官庁会計では財務情報が見えず、単年度の資金繰りの帳尻合わせに終始してしまう」「民間企業では当たり前の複式簿記・発生主義による財務諸表を作成し、正確な財務情報を明らかにすることで、将来を見通した地域経営が可能となる」「財務マネジメントを実践し借金漬けの運営から脱却していくには、会計制度の改革が必要である」と語った[118]。
[編集] 首長連合
横浜市の中田宏元市長や松山市の中村時広前市長(現愛媛県知事)らとともに「首長連合」を結成する。「首長連合」は2009年の衆院選で民主党への支持を表明したため、大阪府知事選で橋下を支援した自民公明両党から「裏切りだ」との声が上がった[119]。選挙後、落選した中山太郎自民党大阪府連会長は「考えもしなかった態度」「信用できない」と橋下を非難した[120]。
[編集] 普天間基地移設問題
「あくまで個人的な見解」としながらも、普天間飛行場の関西国際空港への移設について「国から正式な話があれば受け入れる方向で考えたい」と述べた[121]。また、同時に神戸空港の活用についても言及したところ、神戸市の空港事業室長から知事あてに抗議電話があったとし、「公務員が政治家に厳重抗議するのはおかしい」と批判した[122]。なお、この件では、神戸市室長は「抗議するとは言っていない」と困惑した[123]。橋下の発言を受け、沖縄県議会議員と国民新党の下地幹事長が大阪に出向いたが、橋下は「高度な政治判断が求めらる基地問題で軽々しく発言することは府知事の領域を超えている」として会談を拒否した。[124] その1年後、仲井真沖縄県知事が関空視察の意向を示したところ「関空は大阪空港との統合の話がスタートしているため関空が受け皿になることはない」と述べ、「できたら神戸空港を見ていただきたい。将来性が見えない海上空港は神戸だ。僕もついていく」と発言した。[125]しかしその翌日には「候補地は国が決めること。国が関空だと言えば、議論の場は拒否しない」と述べ、受け入れ拒否ではないとしている。[126]
[編集] 大阪府再編構想
2010年1月12日、公明党の年賀会で「競争力のある大阪にするためには、一度大阪府を壊す必要があるし、大阪市も壊す必要がある。来たるべき統一地方選挙において、大阪の形を1回全部解体して、あるべき大阪をつくりあげる」と述べ、府と市の枠組みを取り除き、広域行政によって「ひとつの大阪」を目指す考えを示した。その上で、きめ細かな住民サービスを行うため東京23区のような特別区の導入も検討しているという。橋下は2011年春に行われる大阪府議会および23の市町の選挙(統一地方選挙)に向けて大阪の形を変えていきたいと主張し、政治グループを立ち上げる決意を示し[127]、2010年4月19日、大阪都構想の実現を掲げる地域政党大阪維新の会を結成、自らが代表に就任した。
詳細は「大阪都構想」を参照
[編集] カジノ及び風俗街構想
「ギャンブルを遠ざける故、坊ちゃんの国になった。小さい頃からギャンブルをしっかり積み重ね、全国民を勝負師にするためにも、カジノ法案を通してください」 「こんな猥雑な街、いやらしい街はない。ここにカジノを持ってきてどんどんバクチ打ちを集めたらいい。風俗街やホテル街、全部引き受ける」 等と述べ、賭博の合法化と大阪花博を機に行政指導により撤廃された風俗街の復活を訴えた。
経済発展の段階は何ですか
[編集] 時事問題についての見解・発言
[編集] 政治について
- 安全保障について、「日本の一番情けないところは、単独で戦争が出来ないことだ」と述べるなど、徴兵制度の復活や核兵器保有を肯定する発言を度々行っていた[18]。ただし、2007年12月12日の大阪府知事選出馬時の記者会見では、現実に日本が核武装することはありえないと述べ、同年12月25日には「バラエティー番組での発言で世間ウケしないといけなかった」と弁明した[128]。米海軍艦艇への給油活動を行うテロ対策特別措置法にも肯定的である。
- 府知事選出馬表明以前には、政治家を志す動機について自著で「別に政治家を志す動機付けが、権力欲や名誉欲でもいいじゃないか」「なんで『国民のために、お国のために』なんてケツの穴が痒くなるようなことばかりいうんだ?政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。その後に、国民のため、お国のためがついてくる。自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、嫌々国民のために奉仕しなければいけないわけよ」と述べている[129]。
- 外国人地方参政権について、2008年1月8日のマニフェスト公開討論会において、「そんな簡単に結論が出ることじゃない」としつつも、「大阪府内には歴史的経緯のある特別な永住外国人が多く、歴史的に見ても特別永住外国人について、当然これは参政権を与えるべき」とし、かつて日本の領土下にあった朝鮮及び台湾が独立する以前から日本本土に居住していた在日韓国・朝鮮人・台湾人及びその子孫に限って(つまり特別永住者に限って)、外国人参政権を容認している[130]。知事就任後、2010年2月26日の定例府議会では、外国人地方参政権について「今の議論は非常に拙速」「議論も全く深まっていない段階で結論を出すのは余りに早過ぎる」と答弁。その上で、「外国人地方参政権の参政権だけに焦点が当たっているが、日本人とは何ぞやを本当は議論しなければいけない」「例えば在日韓国人の2世、3世は、(アメリカのように)生地主義・出生主義をとれば、日本人になってしまう」「(日本が)出生主義か血統主義かを考えるには、天皇制が一番重要なポイントになる。日本国憲法の第一章の一番最初に、国民の権利義務の前に天皇制をきちんと置いて、我々は天皇制をいただいている、日本の国柄は血統主義を前提に成り立っている」との認識を語り、「世界各国の多くで基本的� �血統主義がとられている」ことを念頭に、外国人地方参政権については「日本国民をどう捉えるかの議論をもっとしっかりやって、結論を導いていただきたい」と述べた。一方で、「(大阪府に)在日韓国人10万人が住む状況を見ると、全国一律の議論と同じ結論にはならないのかなという思いもある」とも語り、「こんな大きな議論をわずか数カ月程度で結論を出すこと、中身の問題よりもこの結論の出し方自体、民主党の今のやり方には反対」とする答弁を行なった[131]。また、同年4月7日のテレビ番組における発言では、特別永住者以外の外国人(一般永住外国人)の参政権に関しては「絶対反対」とし、民主党が提出使用している法案は一般永住外国人も含めているため「大反対」としている。その際、「民主党は拙速しすぎている。日本国民(の存在)を忘れ去っている」と述べている[132]。
- 地方での講演依頼の中には「憲法9条改正反対」や「核廃絶」などについての依頼もあり、「私は改憲派だし、核保有を肯定します」と断りを入れると先方がビックリしていると、常々関西ローカル番組内で語っている。そのためか、政治的な内容の講演はなるべく関西を中心に『そこまで言って委員会』のネットエリア内[133]に限って行い、それ以外の地域では政治的な内容を含まない講演[注釈 12]であれば引き受けている。
- 政治信条や政策は小泉純一郎元首相を手本としており、小泉の引退表明時には、「小泉元首相らしいというか、感動です。小泉元首相がやったことと比べれば、僕のやったことなんて鼻くそみたい」と発言した[134]。
- 大阪維新の会タウンミーティング(2010年12月12日夜)で、「大阪市職員は政治活動をしている。政治活動に公務員が首をつっこんでくるのはおかしい。負けたときは一族郎党どうなるか。われわれが勝ったときには覚悟しとけよ」と発言[135]。
- 外国人からの政治献金について、政治資金規正法の抜け道である外国人に販売可能な政治資金パーティー券の飲食代との差額を利用して、外国人だと意識した上で政治献金を募っていることを公言している[136]。
- TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)について、「基本的に賛成。世界情勢をみれば、アメリカと韓国がやっていて、日本だけが世界とのつながり遮断するわけにはいかないと思う」としている[137]。
- 東日本大震災による震災瓦礫について日本各地で受け入れ拒否の動きが発生しているが、橋下は「安全性を確認した上で、原則受け入れる」「嫌だと言えば東北地方はどうなるのか」と発言している[138]。
[編集] 事件・司法について
- 元ライブドア社長の堀江貴文が有価証券報告書の虚偽記載で実刑判決を受けたことについて、「堀江は社長を辞任しており再犯の可能性もないのに、罪を認めないと執行猶予がつかないというのは、政治資金収支報告書の虚偽記載など他の犯罪に対する刑とのバランスがおかしく、(堀江に厳しい)世論になびいているとしか思えない」として「司法に失望した」と述べた[139]。
- 日本弁護士連合会が憲法・法律・死刑執行に関し度々意見表明をする事について、「問題は、この弁護士会が政治的な意見表明を行っていることである。(中略)こういう組織は政治的な意見表明をしてはいけないという当たり前の事を理解していない弁護士が多いのだ」と批判した[140]。
- 「附属池田小事件」発生時、「被告人を速やかに死刑にすべき」という寄稿を週刊誌で発表した。その後、死刑判決を望んでいた被告人から弁護人を通じ、早期の死刑実現に対する援助を依頼する手紙が届く。橋下は、被告人が遺族に謝罪するという条件付で了承する旨返答した。しかし被告人からの返事の手紙には、人生に対する恨みや苦悩は書かれていたが、遺族への謝罪や反省のコメントは書かれていなかった。2004年、橋下は『たかじんのそこまで言って委員会』において、この手紙の内容を公開・朗読した。また、被告人に対して同情的発言をしていた真宗大谷派の僧侶について、「こんな手紙を送る奴を援護する京都のクソ坊主に腹立つ」と発言した。
- 2007年4月12日の朝日放送の情報番組『ムーブ!』で、尼崎小学生女児暴行事件について「女の子が服を脱がされたのか、自分から脱いだのかによって話が変わってくる」と、レイプは被害者にも責任があるととれるような発言を行った(セカンドレイプ)。被害女児の母が加害者に引越しを求め、それが出来ない場合は女児側が引越す、その際の費用は出して欲しいと言ったことについて、「引越し費用の請求をするのは、明らかに行き過ぎた行為」と批判をした。
- 2007年、船場吉兆の食品表示偽装が問題になった際、テレビで「船場吉兆のパート従業員が嘘を言っているかも知れない」という趣旨の発言をし、「もしも従業員の言っていることが正しいのならばなぜ訴えないのか?」という疑問も呈した。
- 耐震偽装問題に関し、マンション住人に自己破産を勧める発言をしたことで批判を受けた。その後、関西テレビ制作のワイドショー番組『ベリーベリーサタデー!』において、「(自身の提案は)自己破産によって住人の負担を無くし、特例として再度ローンを組ませるという案があってのものである」と弁明した。
[編集] 教育について
- 厳しいしつけや体罰に肯定的である。かつてテレビ番組で、『いじめ行為に加担していた自分の子供を50分近くも投げ続けた』ことを告白し、「口で言って解らない年齢の子供には、痛み(体罰)をもって反省させることが重要」とし、体罰に否定的な教育評論家の尾木直樹と論争になった。(現在でも、遺恨はあり、知事の「公務員 君が代起立斉唱条例」についても、「時代錯誤で憲法違反」と批判している。)しかし、戸塚ヨットスクールのような不明瞭な部分が多く、体罰と称し大怪我を負わすような行為にはきわめて批判的。なお、いくつかのテレビ番組で戸塚宏と議論をしたことがある。
- 「日本は他国に比べると、学力テストの結果が低いと言われているが、社会に出ると何の役にも立たない学校の勉強(英・数・国・理・社)は重要なものではなく、学校で詰め込むべきではない。また、これらの勉強は大人になってからでも、本人のやる気次第で十分習得出来る。現在の学校の勉強とは受験のための手段に過ぎない。真に必要なのは『人の上に立つ学問』ではなく『人の役に立つ学問』である。学校で最低限教えるべきなのは読み書き、そろばんと、目上の人間に対する礼儀だけでいい。あとは、それぞれが進みたい分野の学問を習得するようなシステムにするべきだ。子供に無駄な知識を強制的に詰め込み、それで優劣をつけるような教育をすると、人格が歪んでしまう。それよりも子供のうちは、太陽の下で思いっ きり遊ばせて、ご飯をいっぱい食べさせて、ぐっすり眠る習慣をとらせるべきであり、また、机の上での勉強だけでなく、ボランティア活動等に積極的に参加させ、社会体験を身につけさせるべきである。」と、現在の日本の詰め込み教育を批判している[18]。
- 2008年9月、国土交通大臣に就任直後の中山成彬(第5・6代の文部科学大臣)が、「(日教組が強いから)学力が低い。」「日教組は日本のガン」「解体しなければいけない」などの批判を行ったが[141]、これについて橋下は「本質を突いている」「事実である」とし、日教組批判をおこなっている[142]。
- 2006年11月放送の『たけしの日本教育白書』において「いじめなんてどこの世界にもある。それ位乗り越えられなくてどうするのか」という趣旨の発言をした。放送当時、児童・生徒らによる、いじめを苦にした自殺が相次いでいたこともあり、共演者から猛反発を買った[143]。ただし、府知事就任後に出演した番組では、「いじめられっ子に対して、『いじめられている現状から逃げるな!』と言う人がいるが、つらい思いをして学校に通い、いじめに耐えられず自殺をするくらいなら、僕は、転校するなり退学するなりして逃げてもいいと思う。逃げることは恥ずかしいことではない。何も学校だけが人生の全てではない。学校以外にも道はあるはずだ。」と発言している[144]。なお、橋下自身、小学生の時、東京から大阪に引っ越し、言葉の違いをからかわれ、いじめられた経験を持つ。
- 「大阪府教育基本条例」を提案。これに対して、橋下に請われて府教育委員を務める陰山英男は、教員管理を強めれば教育が良くなるという橋下の思想は間違いだと批判、「条例が成立した場合は辞任しますから」と言明している[145]。高橋哲哉からは「これは"教育破壊基本条例"だ」「知事を天皇にした天皇制ともいえる府政を作ろうとしている」と批判されている[146]。またこの条例については、思想家の内田樹も自身のブログ上で「最大の問題点は、この条例案は『学校教育というのは非常に惰性の強いシステムであって、頻繁な変更になじまない』という現場の人間にとっての常識を理解していない」と批判している[147]。
[編集] その他
- 事件報道においては実名報道に反対している。被害者についてはマスメディアによるメディアスクラムによって精神的にさらにダメージを受けるためで、被疑者については推定無罪や冤罪の可能性もあるからとしている。ただ、被疑者については裁判で有罪が確定して以降なら実名報道もかまわないとしている。この2点において、逆に原則実名報道を主張する辛坊治郎読売テレビ解説委員(レギュラー出演している「たかじんのそこまで言って委員会」の副委員長)とは幾度も激しい論戦を繰り広げている。
- 「赤ちゃんポスト」について、「性的な乱れを助長するから」という理由で反対意見を述べた大谷昭宏に対し、「子供の命が最優先」として賛成を表明した[148]。
- 2004年球界再編問題における選手会のストライキについて、「野球選手がストライキをすると単なる労働者に成り下がってしまう。球団から一々指揮命令を受けないためにも労働者になるべきではない。個人の事業主として集団で契約更改を拒否すればいいだけである」と発言した。
- 部落問題について、かつて関西系の情報番組で飛鳥会事件が取り上げられた際、「私はこの○○地区で育ち、ど真ん中で差別も利権の構造も見てきた。親の世代はまだまだ差別に苦しんでいた」と体験談を語っていた。
- ボクシング選手の亀田興毅を応援しており、「亀田一家は親離れ、子離れできていない」とした作家の吉永みち子に対し、「二十歳そこそこで、あれだけの会見ができる。立派に自立した人間でしょう」と反論した[149]。また、亀田興毅のファン・ランダエタとの対戦について「プロボクシングはショー」「(亀田の)ダウンはパフォーマンス」と発言[150]。
- 2011年2月1日に始めたツイッターでは、2011年2月20日で受信登録者が8万人を超えた[151]。
[編集] 話題になった言動
- 2002年5月、TBS系列の情報番組『サンデージャポン』で『能や狂言が好きな人は変質者』と述べ、関連する団体や人物から批判を受けた[152][153]。2012年には観客動員数が少ない事を理由に文楽や管弦楽団への財政補助を削減。赤川次郎から「動員数で言ったらベートーヴェンはAKB48にも劣るということじゃないか、そんな馬鹿な話があるか」と批判されている[154]。
- 『サンデージャポン』で悪質リフォーム会社「幸輝」の社内旅行における広東省珠海市での集団買春問題に関して、「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」と発言し批判を受けた[誰によって?][注釈 13]。翌週の生放送で発言の全面撤回と謝罪を行ったビデオを放送する予定だったが、橋下は突然マイクの前に立ち、涙を浮かべながら「(問題発言は2回目だったため)さらにこれ以上スタッフに迷惑をかけたくないから、番組から去らさせていただきます」と宣言し、スタジオを出て行ってしまうというスタッフも想定外の行動に出た。番組スタッフは『降板をこちらから強いたことはない』と困惑していたとされるが、番組における問題発言の責任を取る形で自らレギュラー出演を降板した[152][153][注釈 14][注釈 15]。
- 2006年3月12日放送のフジテレビの情報番組『スタ☆メン』において北斗の拳の話題の中で、足をひきずる人について『びっこ引いている』と発言した。司会者に指摘されすぐさま謝罪したが、番組のエンディングで再度司会者がお詫びを行う事態となった。同年5月7日放送の『スタ☆メン』の特集に絡め、司会の阿川佐和子に対して「いまの僕なら阿川さんを即妊娠させられますよ」と発言。橋下の発言に対して大阪弁護士会に弁護士としての品格を問う苦情が寄せられた。
- 弁護士登録した1997年4月以降の数か月も含め、合計34か月間以上に渡って国民年金の保険料が未納であったことが発覚している[155]。
- 2007年に逮捕者を出しているパチンコ関連企業梁山泊の関係者と交友があると報じられたが、橋下も報道陣の取材に対しこの事実を認めている。2007年3月に逮捕された梁山泊関係に連れられて「許永中の愛人である女性がママをしている」とされる大阪・北新地の高級クラブを訪れたという[156]。
- 2008年9月7日、ラジオの公開収録で、学力テストの市町村別正答率の公開を拒否する教育委員会に対し「クソ教育委員会」と発言した。橋下は後に、大阪市長や自らの母親に発言をたしなめられたことを明かし、謝罪したが発言は撤回しなかった。その後、大阪府下の市町村長から橋下の主張する正答率公開に賛同する声が出たため、府教委も方針を転換し、市町村別正答率を公表した。
- 2008年10月19日、伊丹駐屯地で開かれた「中部方面隊創隊48周年記念行事」の祝辞の中で、「人の悪口ばっかり言っているような朝日新聞のような大人が増えると日本はダメになります」と発言した。橋下は後に、10月3日の朝日新聞における山口県光市の母子殺害事件を巡る橋下のタレント弁護士時代のテレビ発言を批判した社説に対する反論だと主張した[157]。その翌日の同年10月20日には「朝日新聞がなくなった方が世のためになる。全く愚かな言論機関。すぐさま廃業した方がいい。権力の悪口を言っていればいいと思っているのではないか」と非難した[158]。これらの言動について産経新聞は「えーと、悪口ばかり言っている大人は・・・・・・なんでしたっけ。」[159]と論評した。
- 「虎の威を借る政治家」として小沢一郎を批判した。[160]
[編集] テレビで懲戒請求呼びかけ
2007年5月27日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』において、「あの弁護団に対してもし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」、「何万何十万という形で、あの21人の弁護士の懲戒請求をたててもらいたいんですよ」と山口県の光市母子殺害事件の弁護団に懲戒請求を行うよう視聴者に呼びかけた[注釈 16]。これによりテレビやインターネットなどで、「懲戒請求書の記載の仕方」を見た人たちの懲戒請求書約7,558通(前年の2006年度中に全弁護士会に来た懲戒請求総数の6倍以上)が殺到することになった[161]。
これに反発した弁護団のうち4人が業務を妨害されたとして、2007年9月、橋下に1人当たり300万円の損害賠償を求めて広島地裁に提訴した。橋下は「発言に違法性はない」、「懲戒請求は市民の自発的意思」、「自身のテレビでの発言と一般市民の懲戒請求の間には因果関係はない」などと反論した。
後に橋下自身は懲戒請求していなかったことが明らかになり、そのことを批判されたが、その理由について「時間と労力を費やすのを避けた」[162]、「自分がべったり張り付いて懲戒請求はできなくはないが、私も家族がいるし、食わしていかねばならないので…」などと釈明した[163]。
この懲戒請求呼びかけについて、ジャーナリストの江川紹子は「請求の内容によっては、懲戒請求をされた弁護士の側から訴えられる可能性もあるという負担やリスクを説明せず、ただ『誰でも簡単にできる』と気楽なノリでしゃべっている」、「「世間」を煽っている感じさえする」などと批判[164]。
同年8月6日、橋下は弁護団が開いた緊急報告集会に出席していたが、その場では「安田弁護士が最高裁の弁論を欠席したこと、これは究極の弁護方針として、弁護戦術として、これはもうもっともだと思う」などと発言していたが、翌8月7日の自身のブログにおいては、自分たちだけが正義の実現者だと思い上っているとして、「この集会はカルト集団の自慰(オナニー)集会だね。」と酷評した。また、「チンカス弁護士」「オタク法律家」「法律オタクのお坊ちゃん弁護士」などと述べた[165]。
また、横浜弁護士会が懲戒請求者に対して住民票の提出を要求したことに対して、自身のブログで「横浜弁護士会のインチキ野郎」「偽善に満ちた行為」と激しく非難[166]。
懲戒請求自体は弁護団を懲戒するだけの事由及び信憑性が無かったとして各弁護士会で次々と却下されており、懲戒処分された弁護士は1人もいなかった。これに対し橋下は、『たかじんのそこまで言って委員会』2007年12月9日放送分において、「7,000通も(懲戒)請求が出ているのに何にも意味が無いんだ」と懲戒請求制度及び弁護士会の態度に不満を洩らしている。 同年12月17日、今度は反対に、市民約350人が「刑事弁護の正当性をおとしめたことは、弁護士の品位を失うべき非行だ」として、大阪弁護士会に橋下に対する懲戒処分を請求した[167]。橋下弁護士が懲戒請求をよびかけた弁護団の中に兄弁護士にあたる先輩がいた事から、橋下弁護士の最初の勤め先の親弁護士であった樺島弁護士も、この橋下弁護士に対する懲戒請求に名前を連ねている[168]。その後2009年4月14日、弁護士会綱紀委員会は懲戒相当である旨議決[169]。2010年9月17日、業務停止2ヶ月の処分が下った[170]。 また21日、処分内容が一部マスコミに漏れた点を問題視し、大阪弁護士会会長に対しても懲戒処分申し立てをした[171]。「弁護士会の品位の基準と僕の基準は違う」とまで発言している[172]。
広島弁護士会に請求申し立てされた7弁護士への懲戒請求は却下されたが、これを受け、弁護団の4人が橋下を相手に損害賠償請求を行った。一審の広島地裁は2008年10月2日名誉棄損を認め計800万円の賠償を命じた[173]。二審の広島高裁は2009年7月2日、賠償責任は認めたが賠償額を360万円に減額する判決を下した[174]。三審の最高裁は2011年7月15日、二審を破棄し、賠償請求を棄却した[175][176]。これにより橋下の逆転勝訴が確定した。
[編集] 所得申告漏れ
2006年5月23日、本業である弁護士業務の経費計上等にかかわる約2500万円の申告漏れを大阪国税局から指摘され、修正申告に応じたと産経新聞[177]に報道された[注釈 17]。 これについて、橋下は自身のブログで「税務調査によって、過去3年間の実際に支出した経費の一部を税務上の経費からはずした結果、(名目上は)過去3年分の所得が(2500万円)増えたことになるが、実際には支出しているから手元に残っていない。しかも、飲食ではなく法律業務に使ったのであって、それを意図的な所得隠しや架空経費の計上で税金をごまかす『申告漏れ』と同一視した」と反論した。また「『申告漏れ』という報道が一般には『脱税』と受け取られやすいのに、情報の受け手のことを考えない(自己満足的な)情報を発信した」という意味で産経新聞を「情報の受け手のことを考えて情報を発信しやがれ、このオナニー新聞が!」と罵倒し、産経の記者の実名を挙げ批判した。また、記者が情報を得たと思われる税務当 局の人物を特定したと書き、その税務署員と産経の記者が国家公務員法に違反すると断じた[178][179][注釈 18]。ブログでは、産経新聞に対して「法的手続きも検討している」と述べていたが、現在まで法的手続は取っていない。橋下の抗議により産経新聞は同年7月8日付け朝刊で、経費請求した名目や内容をそれぞれ「タレント活動に必要などとして」「飲食代などの」としていた箇所を省くとした訂正記事を掲載した。
さらに、この件を報じた『週刊文春』(2006年6月15日号)が、マスメディアでは公開していなかった橋下の家族のプライバシーを明かしたことについて、取材した記者の実名を挙げ「この問題は脱税事件などの違法性を帯びた社会的な事件ではないのに家族のプライバシーを侵害した」として、「三流以下の死に体週刊誌」「魂の欠けたジャーナリズム」と厳しく非難した[180]。
[編集] NHK出演拒否発言
府知事就任3日目にNHKで生放送(関西ローカル)されたテレビ番組『かんさい特集 「新知事・市長に問う 大阪の、これから」』に出演した際の状況から、同局に対する今後のスタジオ出演には出ない旨の発言をした。
2008年2月9日、同番組に出演した橋下は、元鳥取県知事片山善博、大阪市長平松邦夫、上山信一(慶應義塾大学教授)らが出演していた討論の途中でスタジオ入りした。事前に遅れることをNHK側も承知していたことであったが、登場した橋下に司会のNHKアナウンサー藤井彩子は「ちょっと遅刻ですけども、およそ30分で遅刻して到着されました」と紹介した。橋下はこれらの言動に対して激昂し、同日行われた記者会見で、東京での公務がある為に出演が遅れる事は依頼があった日から再三NHK側に伝えてあった事、NHK職員が公務中や移動中でも執拗に公務を切り上げて早く出演してくれと迫ってきた事、女性司会者の言動、現場のプロデューサーやディレクター及びスタッフの挨拶が無い事などを挙げ、今後NHKの番組への出演はしないと発� �した(取材はこれまでどおり受けており、大阪市長に就任した現在でも続いている。)。この後、藤井は番組の降板を余儀なくされ、東京アナウンス室に配置転換された。
これに対してNHK大阪放送局広報部は、「発言は場を和ませようとしたもの、挨拶はしている」とコメント。藤井アナウンサーは高校時代の橋下の同級生である。
同日の関西テレビでは、やしきたかじんがホストを務めるバラエティー番組『ムハハnoたかじん』が、NHKの生番組(19時30分番組開始)とほぼ同時刻の19時29分番組開始で放映されていた。そちらは約30分の録画放送で19時57分まで放映されており、橋下は大阪市長平松邦夫とともに出演していた。また、橋下は同番組に大阪府知事に立候補する直前までレギュラー出演していた。
[編集] 府職員への一斉送信メール問題
2009年10月1日、府の全職員に、府内のダム建設費用に関して、以下のメールを一斉送信した。(抜粋)「水需要予測の失敗によって380億円の損失が生まれたことに関しても、恐ろしいくらい、(職員の)皆さんは冷静です。何とも感じていないような。民間の会社なら、組織あげて真っ青ですよ!!(略)何があっても給料が保障される組織は恐ろしいです……」。これに対して、翌日、女性職員から知事あてに、反論のメールが送信された。すると同日知事は、「まず、上司に対する物言いを考えること。私は、あなたの上司です。組織のトップです。その非常識さを改めること。これはトップとして厳重に注意します。あなたの言い分があるのであれば、知事室に来るように。聞きましょう」と返し、批判合戦となり、8日には、「ト� �プに対する物言いとして常識を逸脱している」として、女性職員を厳重注意処分にした。この一連のやり取りに関して、府に寄せられたメール、電話の反響が、約700件に上った。
市民からの意見は、賛同派と批判派がほぼ相半ばした。知事に賛同する人たちからは「職員全員に社会常識を再教育すべきだ」「民間企業では上司と考え方が違う場合、失礼のないように意見し、通らなければ身を引くしかない」などの意見があった一方、「処分までは大人げない」「意見を求めながら、内容が気に入らないからと処分すれば、誰も意見を言わなくなる」といった知事批判もあった。府の担当者は、「これだけ賛否が分かれる反響は初めて」と話した[181]。
[編集] 「公私混同」との批判
2010年7月14日、サッカー・ワールドカップ(W杯)で日本代表選手として活躍した遠藤保仁選手(当時ガンバ大阪所属)に「感動大阪大賞」を贈った際、贈呈式直前、遠藤選手を知事室に招き入れ、当時小学生と幼稚園児だった自分の子供3人に会わせた。3人ともサッカーファンで、知事自ら誘ったという。8月25日の定例記者会見で明らかにした。
この日の記者会見で、「公私混同ではないか」と問われた知事は、「知事職が(プライベートと仕事を区別しにくい)公私混同で、僕の子供は一般家庭とは違う制限を受けている。個人ではなく、政治家のファミリーとして見てほしい」と述べた。
「サインが欲しいほかの子供と比べて不公平では」との指摘には、「その子供のお父さんに知事になってもらい、(制限を受ける)苦しい親子関係に耐えてもらうしかない」と反論した。
橋下知事には7人の子供がおり、これまでも公務でプロ野球の始球式を行った際などに子供を連れて行き、一緒に試合観戦をしたり、サインボールをもらったりすることがあったという。識者からは「公私混同だ」との批判も出ている[注釈 19]。 また、公用車を使い、昼間にスポーツジムに通っている。
[編集] 「鳥取県議なんて6人でいい」
2011年5月24日、議員定数をめぐる議論に関連し「鳥取県は60万人くらいの人口で、議員が40数人いるんですかね。鳥取県議なんて6人でいいんですよ」と発言。府庁で記者団に述べた[182]。
この発言を受け、鳥取県の平井伸治知事は24日午後、知事公邸で緊急記者会見し「大阪の人が鳥取県の自治について議論するのは差し出がましい。大きなお世話だ」と不快感を示した。平井知事は「簡単に人口で割りきる議論は、デリケートな地方自治にはなじまない。そんな暇があるなら大阪府の自治についてしっかり議論してほしい」と批判した[183]。発言に抗議するのかと問われると、平井知事は「橋下さん流のパフォーマンスだろう。いちいち付き合ってるひまはない」と否定。発言の趣旨について「大阪府の議会の議員を減らす以上のことを言うつもりはないのではないか」と一定の理解を示した[184]。
橋下は5月26日、大阪市内で開かれた関西広域連合の会合で、自身の発言について、鳥取県の平井伸治知事に謝罪した。会合の冒頭、橋下はテレビ中継で参加した平井知事に対し、「すいませんでした。僕の個人的意見で、暴走した発言だった。府庁の幹部や大阪維新の会のメンバーからも怒られた」と釈明した。平井知事も「都市と地方の違いに考慮してもらえれば」などと述べた[185]。
[編集] 「今の日本の政治で一番重要なのは独裁」
2011年6月29日夜、大阪市内のホテルで行われた政治資金パーティーで大阪府知事・大阪市長のダブル選挙に関して、「大阪市が持っている権限、力、お金をむしり取る」「大阪は日本の副首都を目指す。 そのために今、絶対にやらなければいけないのは、"大阪都"をつくることだ」「今の日本の政治で一番重要なのは独裁。独裁と言われるぐらいの力だ」と述べ、大阪都構想に反対する大阪市を抵抗勢力だとして「権力を全部引きはがして新しい権力機構をつくる。これが都構想の意義だ」と締めくくった[186][187]。この「独裁発言」に平松邦夫大阪市長は「絶句した」[188]と述べ、「"大阪都構想"は中身がない、妄想だ、と言ってきたが、その通りだったことを自ら認めた。市民のためでも府民のためでもなく、自分のため、というのが独裁だ」と批判した[189]。橋下は自分自身は独裁者ではないと考えており、独裁ではないかと言われると「こんなキュートな独裁者いますか?」と言い返すことがある。
[編集] エピソード
- 『行列のできる法律相談所』でレギュラー出演していた当時、司会の島田紳助に韓国の俳優ペ・ヨンジュンに似ていると指摘されたことが広まり「法曹界のヨン様」「弁護士界のヨン様」と呼ばれることもあったが、本人は「似てない」と否定していた。また、『週刊文春』の調査で、女性30-50代が選ぶ「テレビ出演しているイケメン文化人ランキング」で堂々の1位に輝き、『行列のできる法律相談所』では「茶髪の風雲児」と称されていた。
- 同じタイタン所属であった山中秀樹(元フジテレビアナウンサー)とは「山ちゃん」「ハッシー」という仲である。
- 時間に対してとても厳しく、『週刊女性』で小説家岩井志麻子との対談の企画があったが、岩井が15分程遅刻したため、対談を拒否した。このため橋下の代わりに徳光正行が岩井と対談を行った[190]。
- 成長が早く、大阪に引っ越した時には体が大きく髭も濃かったため、小学校5年生の時のクリスマスプレゼントが電気カミソリだった。
- 全国高等学校クイズ選手権の近畿大会に参加(1回戦敗退)、更に事前番組・全国放送まで出ていた。地区大会の映像が残っていて福留が「こんなところに出ていたので私はビックリしました」と言っていた。
- 北野高校ラグビー部ではレギュラーメンバー(かつ高校日本代表候補に選ばれた程の選手)だったが、練習熱心というよりはむしろ「要領が良かった」部員で、周りが認める程には練習に熱心に取り組んでいる様子ではなかった[191]。とはいうものの、花園(全国大会)に出場した程のバリバリの体育会系運動部におけるシゴキは健在で、橋下本人はテレビや書籍等で、「ラグビー部時代の厳しい練習で肉体と精神が鍛えられた」旨の発言をしている。大学時代も早稲田大学のラグビー部の練習を一応見に行ったが、「脳みそまで筋肉でできている奴らばかりだ」と思い、入部しなかったという。
- タレント弁護士時代は全国から講演依頼を受けることもあるが、その依頼のほとんどは「反戦」「反核」などの類だったが、「私は核武装論者」と断りを入れると相手方はびっくりしていたという(大半の弁護士は反戦・平和主義であることから橋下もそうだろうとの思い込みがあったものとみられる)。そのため、政治的色彩のある講演については自身が出演していた『たかじんのそこまで言って委員会』の放送エリア(関東や一部東北地方、沖縄県を除く)で行ない、そうでない地域からの講演では子育てやテレビ出演の裏話など比較的柔らかい内容でなら引き受けることとしていた。
- 2007年10月7日、電子掲示板サイト『2ちゃんねる』に「橋下弁護士の一家惨殺してやる」というタイトルの殺害予告スレッドが投稿された。これに対し、橋下は法律の専門家として一般市民の言論に対してはできる限りアクションは起こしたくなかったが、内容や自分の立場や家族のことを考え、所属法律事務所、マネジメント会社、警察との協議により刑事告訴を行ったことを自身のブログで明らかにした[192]。
- マイケル・ジャクソンの死去の報について、「スリラーは何百回、何千回テープが擦り切れるまで聞いた。非常に残念」とコメントした[193]。
- 豊能町での公開討議において、「尊敬する昆虫はゴキブリ」と述べた。理由は「すぐに逃げて危機感がすごい」[194]。
[編集] 家族 親族
[編集] 子だくさん
3男4女の父親であり、子だくさんとしても有名である。本人と夫人曰く「ライバルは『笑点』の山田隆夫と堀ちえみ」(子沢山で知られる山田は4人、堀は5人)[注釈 20]。
- 「私も、子どもは7人いますが、全く子育てをしなかったので、妻から『子育てについて何を語るのですか。』と言われました。[195]」
- 「僕は子供が6人いるけど、妻がいなければ子供と一緒にいるのは30分が限界かな[196]」
- 「まあ僕も、避妊の方法をしっかり学ばなきゃいけない立場なんだけどね。6人だもんなあ。さすがに7人目は、ちとキツイからね…[197]」
などと笑いをさそう発言する一方で子煩悩ぶりが評価されることも多い。2006年の6月にはベストファーザー賞(イエローリボン賞)を受賞した。[198]。
- 橋下家(大阪府八尾市・豊中市)
家系
- 橋下の母によれば、「橋下一族は先祖代々同和地区に住んでいたわけではなく、徹の祖父の代にたまたま転入したに過ぎない」という[199]。つまり橋下の母によれば、「橋下家は同和部落出身ではない」ということになる[200]が、『週刊文春』(2011年11月3日号)によると「橋下の実父は、とある関西地方の山裾の寒村の被差別部落の出身」という。
- その寒村の橋下姓の老婆は「昔は"橋下(ハシシタ)"という家が六十軒ぐらいあった。大概の者は名前を"橋本"に変えて出て行ったと聞いている。ここらの人はみな教育熱心で、一生懸命勉強して就職差別やいろんな差別と闘ってきた。」[201]と述べている。
- 山裾の寒村を離れ、橋下の実父らが居ついた先は大阪府八尾市にある同和地区だった[1]。この地区のもっとも古い記録は豊臣秀頼がおこなった1613年10月の検地帳にある「かわた」という記載である[202]。カワタというのは「皮田」とも「皮多」とも書き、とくに大阪に特徴的な穢多身分の呼称で、死牛馬の処理を生業としていた[202]。徳川幕府の頃には生皮からとれる膠を生産していた[202]。橋下家がいつ移ってきたのか定かではないが、墓所には橋下から三代前の曾祖父の名が刻まれている[202]。
- 橋下の叔父によると「ほかにも在日とか言われているけどそんなことない。同和や。わしもアニキ(橋下の実父)も同和やゆうのに誇りもっとった。」[203]という。
橋下姓について
- 橋下の母は次のように語っている。「あの子が生まれた時点で、向こう(橋下家の人々)との因縁を断ち切るつもりで、ハシシタ姓をハシモトと変えたんです。向こうの親たち(橋下徹の祖父母)は、反対しました。けど、橋の下を歩むようなイメージの苗字はどうか。この子は、橋のたもとを注意深く生きていくように、と願って変えました。だから、ちっちゃいときから、あの子はハシモト。その意味は当人もよく知らないはずです。」[204]。
- 橋下の叔父は「(ある日突然)アニキ(橋下の実父)が『俺はこれからハシモトでいく。お前はハシシタでいけ』言うたんや。」[205]と述べている。
実父・叔父について
- 橋下が実父について述べたインタビューによると、「父親の思い出はひとつだけ。2、3歳のとき、食事中に箸を投げたら、背負い投げされてぼこぼこにされたんです」という[206]。
- 橋下の母によれば「父親はあの子が小さいときに離れ、以来私も近寄らせませんでした。あの人と私たちは東京と大阪で離れていましたので、仕事も何をしていたのかよく知りません」という[207]。
- 実父とその弟(叔父)は土木・水道工事の仕事をしていた暴力団組員だった[208]。実父は橋下の幼時期に家庭から離れ、八尾市の同和改良住宅に住み、橋下が小学校2年生の時に死去。自殺だったという[注釈 21]。実父は現在、同和地区住民のために建設された八尾市の市営墓地に眠っている[204]。
- 橋下の実父と、その弟の両方を知っているという地元住民によると、「弟は○○(地区)で水道工事会社をやっていたが、今は倒産してない。この水道工事会社は、実は兄、つまり橋下知事の実父が段取りして設立した会社や。暴れん坊で、ある組織[注釈 22]の三羽烏といわれたほどの男や。立場上、名前を出せなかったので弟に会社をやらせていたんや」という[209]。
- また橋下の叔父(実父の弟)の水道工事会社は地元八尾市の指名業者でもあったが、部落解放同盟大阪府連が資金源獲得のために設立した直轄の建設業者組織「大阪府同和建設協会」の会員でもあった[209]。倒産時多額の借金を抱えていたため、「貸した金を踏み倒された。なのに謝るどころか、平気な顔をして外国車を乗り回している。なにが『ハシモト』や100人が100人『ハシシタ』と読むわ!」と、今なお怒りが収まらない住民もいる[209]。
- 「新潮45」(2011年11月号)に橋下の実父がヤクザであったとする叔父の証言が掲載された。ノンフィクション作家の上原善広によると「叔父は私の取材に対してわしもアニキも博徒系のヤクザ『土井組』に入っていた組員だったと認めたのです。この暴力団は今はもう解散していますがかつて大阪中南部の針中野に拠点を置いていた。」という[205]。
- 橋下はこれらの報道について「ほぼ事実」と認め[210]、twitterで「実父についての記憶は殆ど無い、実父のガス自殺は成人近くになって知らされた、実父が正式な暴力団組員であったことは週刊誌報道で初めて知った」などとコメントしている。
継父 ┃ 母 ┏妹 ┣━━━┫ ┏実父 ┗橋下徹 祖父━━━┫ ┃ ┗叔父 ┣━━━━三男四女 ┃ 妻
[編集] 大阪市長就任後
[編集] 府知事就任後(報道・ワイドショー番組を除く)出演
[編集] テレビ番組
[編集] 府知事選立候補表明前までの出演
[編集] テレビ番組
その他多数
[編集] ラジオ番組
その他多数
[編集] CM
[編集] 参考文献
- 別冊宝島Real076『平成日本タブー大全2008』
- 『g2(ジーツー)』講談社、2010年12月号 vol.6、森功「同和と橋下徹」
- 『週刊新潮』(2011年11月3日号)
- 『週刊文春』(2011年11月3日号)
- ^ 本来の読み方は「はしした」だった。橋下の母によれば、「徹が生まれた時点で父方の実家との因縁(いんねん)を断ち切る意図のもとに「はしもと」と改めた」という(g22010年12月、森功「同和と橋下徹」p.32~33)。
- ^ 中学時代は仲間と共に川条をいじめて川条が転校したというエピソードを『たかじんのそこまで言って委員会』で紹介したが、川条にはいじめられた記憶がなく、2007年12月、川条から電話で問いただされた橋下は、「作ってました。申し訳ございません。」と謝罪している(38歳知事<上> メディア利用 計算ずく? 読売新聞2008年1月28日)。高校では偶然、再び一緒になった。
- ^ ラグビー部に入部したのは当時放送されていた人気テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』に影響されたからである。もう一つの理由は転校した中学校が札付きの不良が特に多い地域の学校であったため、どうしたら自分を守れるかと考えた末、校内で一番強いグループであったラグビー部の番長の下につけば安心と考えたからだという。
- ^ この試合は、近畿勢同士の対戦、かつ関西屈指の名門進学校VS関西屈指の名門ラグビー強豪校の対戦ということで大きな話題を呼んだ。しかもこの試合が1988年(昭和63年)の元旦だったため、会場の近鉄花園ラグビー場が満員札止めになってしまい、同会場の客席改装に至ったとのことである。
- ^ 傷物の革ジャンを安く仕入れ、その傷を蝋を塗って隠し、高額で売っていたといい、橋下自身、「ちょっと詐欺みたいなものなんですけども」と『徹子の部屋』で語っている。
- ^ (戦後の歴代市長は平松邦夫まですべて大阪市内に在住。)
- ^ 「国家予算から単純計算すると、日本に生きるだけで一人あたま47万円の金がかかる。税金を払わない奴は生きる資格がない」というのが理由(「生きるに値しない命」)。なお、旧東ドイツでは一定期間無職であると職種ミスマッチお構いなしの強制就労が待っていた。三清教育隊も参照。
- ^ 当選後初出演した『そこまで言って委員会』で実際のビラが紹介されたが、発言はいずれも『そこまで言って委員会』を中心とした地元関西での番組で発言していたもので橋下本人も認めている。しかし、発言した番組はすべてが在京キー局の番組(テレビ朝日『スーパーモーニング』やTBS『サンデージャポン』など)とされている(実際各番組でも同じ発言を繰り返していた)。
- ^ 1997年2月定例府議会、第35号議案「大阪府基金条例一部改正の件」。
- ^ 2009年2月定例府議会、第82号議案「大阪府基金条例一部改正の件」。
- ^ 2010年2月定例府議会、第73号議案「大阪府基金条例一部改正の件」。
- ^ 7人の子持ちということから子育て関連についてが特に多い。中にはかつて番組で競演した丸山和也弁護士(現・参院議員)とコンビで出演し、講演会のはずがトークショーと化したり、ビンゴ大会の司会を行う場合まであった。
- ^ 『行列のできる法律相談所』で共演している北村晴男弁護士はこの発言を聞いた時、「こいつ、頭がおかしいのかと思った」という
- ^ 先に『たかじんのそこまで言って委員会』で全く同様の発言をしたがこの時は問題に問われなかった。
- ^ その後、2006年中期から時々ゲスト出演しており、その時には司会の太田光が名付けた八代英輝とのコンビ名、「青空有罪・無罪」の有罪という扱いで出演する(無罪は八代)。
- ^ この番組は収録なので、橋下自身は「もしカットされたらもうしょうがないんですけど」と放送されない可能性もあることをわかった上で発言している。共演していた勝谷誠彦も橋下に同調し、「(懲戒請求を)出したったらええねん」と述べたが、読売テレビはそれらをカットせずに放送した。
- ^ この事件以降、出演番組(特に『たかじんのそこまで言って委員会』)で「脱税弁護士」「脱税の出来る法律相談所」「昔はトライ、今は税金ノックオン」等と揶揄されることがあった。また、事件についての報道がされなくなった後も、島田紳助に、しばしば「税金を理解していない弁護士」などとネタにされていた
- ^ しかし、その記事の中では自身は産経新聞を熟読しており、雑誌の『正論も定期購読しており、「だいたい産経新聞に賛成だから、購読を続ける」としている。
- ^ 元神奈川県逗子市長の富野暉一郎・龍谷大学教授「外国の賓客に妻同伴で対応するのはもてなしとしいう側面があるが、公務中に子供を著名人と会わせるのは、公私混同の家族サービスと見られても仕方ない。目くじらを立てるほどの問題ではないかもしれないが、公職にある者としての配慮に欠けた面があったと言わざるを得ない」(読売新聞2010年8月26日「橋下知事 公私混同」)
- ^ 子だくさんであることに関して、「妻の実家から子供ばかり産んで、君は避妊の方法をしらないのか」と叱られたと述べている。また、「どうして君は友だちがいないのか」という本を出版した際、『行列のできる法律相談所』において、島田紳助に「どうして君は子供を産み続けるのだろうか」と表紙を変えられネタにされた。
- ^ 地元八尾の府議によれば「父親は、八尾の改良住宅に住んではったそうです。同和対策事業の一環として建設された住宅で、そこで亡くなったらしい。普通の死に方ではなく、ガス爆発だったと伝えられます。単なる事故か、あるいは仕事に行き詰って自殺したのではないか、などとも囁(ささや)かれていました」という(g2第6号、2010年12月「同和と橋下徹」35ページ)
- ^ 『平成日本タブー大全2008』104頁によると「この組織に属していたある人物の"名前"を言えば、地元の年配者なら誰もが思い当たる。この"ある人物"は、組織に属しながら、部落解放同盟○○支部書記長や同大阪府連執行委員を務め、詐欺や恐喝で何度も逮捕されている」という
- ^ これがきっかけで公式の場でもトップ会談が組まれ、意見交換が行なわれていた。またやしきたかじんの自宅においてもお付の役人(橋下知事付のSPを除く)やテレビカメラがいない中で突っ込んだやり取りを行なっていた。
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